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礼拝説教「あなたは笑った」創世記18章8〜15節
 

私が聖書学院の修養生だったころ、学生が交代で朝の祈祷会で、お証しや小さな説教をするのですが、最近は知りませんが、そのころは、何か一言、面白いことを言ってから説教に入る、そんな風習がありました。最初に、ちょっと場を和ませてから、というのは、アメリカのスピーチのスタイルではないかと思うのですが、今でも、何かジョークを言いたくなる、悪い癖がありまして。最近は、池の上教会の皆様も、少し慣れてきてくださって、おつきあいで笑ってくださる方もおられて、大変嬉しく思っております。これが、まったく受けなかったときは、少し落ち込んでいたりします。でも、受けなかったジョークを、「ただいまのジョークはこういう意味です」と解説するくらい、辛いことはございません。面白くないときは優しく、無かったことにしてください。

さて、本場、アメリカでも、神学校の先生の中にジョークの好きな方がおりまして、学生が眠たくなって来た頃に、おもしろい話をしてくれるのです。ところが、時事ネタというのか、テレビのトークショーの話をするのですが、留学生はテレビを見ている時間もない。それに文化が違うので、何がおもしろいのか分からない。で、周りが笑っているのに、まじめにノートを取っているのは、たいてい、日本人か韓国人です。ジョークというのは、かなり文化の影響を受けていますので、違う国の人には全く通じない。アメリカの教会の日本語礼拝で説教をさせていただいていたころ、同時通訳をしてくださる青年たちがおりまして、私がジョークを言うと、アメリカ人に受けるようなジョークに切り替えてくれて、上手だなと思ったものです。しかし、ダジャレは難しい。「布団が吹っ飛んだ」なんて、英語になりません。翻訳者泣かせの牧師でした。

しかし、牧師がジョークを言うのは、ある意味仕方がない。なぜかと言いますと、聖書の中にもたくさんのジョークがあるからです。旧約聖書はダジャレの宝庫みたいなもので、ただ日本語には訳しにくい。また、翻訳をされる方はまじめな方なので、シャレだとは分からないように訳してくださっています。ですから、聖書を読んでいて笑った、なんて経験は、おそらくみなさん無いんじゃないでしょうか。今朝のメッセージは、「あなたは笑った」というタイトルです。一体、誰が笑ったのか、そして、どんなダジャレが隠されているのか、創世記の17章、18章、そして少し先ですが、21章を開いてまいります。いつものように、お話を三つのポイントに分けてまいります。第一に「アブラハムは笑った」、第二に「サラは笑った」、そして最後に「神は笑った」です。

1.アブラハムは笑った(17:16〜21)

神様が最初アブラハムに呼びかけたとき、そのころはまだアブラムという名前でしたが、神様は「あなたを祝福する、あなたを大いなる国民とする」と、大変に漠然とした約束をされました。それが、だんだんと具体的な約束になって行きます。「あなたの子孫にカナンの地を与える」となり、「あなたの子孫は星のように多くなる」と言われ、アブラハムはその言葉を信じました。しかし、99歳になって、もうこれから子供が生まれることはない、そう思わざるをえなくなった。その時、神様が約束されたのが、ちょっと戻りますが、17章の16節です。

17:16わたしは彼女(これはサラのことです)を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

サラが子供を産むと言われたとき、ついにアブラハムは、その言葉をそのまま信じることが出来なくなったのです。そして、つい笑ってしまった。それが17節です。

17:17アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

この笑いは、不信仰の笑いです。さすがの信仰の父アブラハムでも、これを信じることは無理だったようです。人間の信仰には限界があります。しかし、神様には不可能も限界も無い。神様はアブラハムの信仰を成長させるため、徐々に信じにくい約束を与えていった、かのようです。アブラハムは、サラが産むのは無理だから、サラの奴隷が代わりに産んだイシュマエルで、もう良いと思ったのです。18節。

17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。 20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。 21 しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」

神様はあくまで本気です。まもなく90歳になるサラから子供を産ませる、と言われました。しかも、まだ生まれていない子供に名前まで与えられました。名は実体を示す、それが旧約聖書です。ですから、まだ影も形もないけれど、イサクという名前を持った存在が生まれる、と約束されたのです。では、イサクとは何か。ここに神様のユーモアが隠されています。日本語ではイサクと発音されていますが、原語では「イッツハーク」という発音です。イッツハークがなまってイサク。ではなぜイッツハークなのか。17節で、原文では「アブラハムはひれ伏し、そして彼は笑った」となっています。この「彼は笑った」、それがイッツハークという言葉なのです。神様は、お前は笑ったな、だったら、子供の名前は「笑った」、「わらた」にしよう、ということです。明治時代のある文豪が、父親から「おまえなんか、くたばってしまえ」と言われて、自分のペンネームを「二葉亭四迷」にした、という俗説がありますが、神様も同じような洒落心の持ち主のようです。

さらに、アブラハムがイシュマエルのことを言った。イシュマエルは「神は聞かれる」という意味です。そこで20節、

イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。

アブラハムの、不信仰の言葉まで、神様は真に受けて、それを本当にしてしまう。これは本当のユーモアです。千代崎牧師のダジャレとはレベルが違います。アブラハムの失敗を隠してあげたのです。思いやりです。

そして、これこそ、神様の真実です。人間は不信仰であり、不真実です。言葉通りにはできないし、ならない。でも、神様はご自分のおっしゃることを必ず成し遂げる。そして、ご自分の選んだ、アブラハムも、言ったことが真実であるように願われるのです。私たちも同じ神様を信じる者として、真実な言葉の人間としていただきたいと願います。いえ、私にはそれが出来なくても、神様は私に約束された御言葉をかならず真実としてくださる。その神様を信頼しましょう。

2.サラは笑った(18:9〜15)

18章は、17章の出来事の、おそらく数ヶ月後のことです。三人の旅人がアブラハムの近くを通りました。旅人をよくもてなすのが当時の習慣です。アブラハムはこの三人を招き入れました。ところが、この三人はただの人ではなく、神様の御使いだった。詳しいことは来週、お話ししますが、ただの天使ということでもない、不思議な存在だったようです。アブラハムは彼らをもてなした。すると、彼らはアブラハムに驚くべき事を告げました。9節。

9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます」と答えた。 10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。

人間は、誰でも自分の名前はよく聞こえます。テントの中にいたサラは、自分の名前が出たので、外の会話に耳を傾けた。そうしたら自分が来年、子供を産むと言われたのです。彼女は、それが信じられなかった。そして、12節。

18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

サラは笑った。これも、アブラハムの時と同じく、不信仰の笑いです。そのサラの笑いに対して、御使いは「なぜサラは笑うのか」と咎めるようなことを言いました。アブラハムの時は、特に何も言われなかったのに、なぜサラはしかられるのか。不公平でしょうか。

似たような出来事が新約聖書にも出てきます。開かなくて結構ですが、ルカの福音書の最初に、ザカリヤとマリヤという人たちが出てきます。二人とも天使の御告げを聞きました。その内容もほとんど同じで、人間的には信じがたい出産の予告です。そして、二人とも最初は信じられなかった。ところが、ザカリヤは信じなかった罰として、子供が生まれるまで口が利けなくなった。しかし、マリヤは、信じなかったことを咎められなかったのです。何が違ったのでしょうか。ザカリヤは祭司でした。聖書をよく知っていて、人にも教えるべき立場です。ですから、旧約聖書の中に、同じように天使の御告げにより、年老いてから子供が生まれることがあったと知っていたはずです。しかし、それが自分の身におこった時に信じられなかった。それに対し、マリヤのほうは、もちろん、信仰深いユダヤ人は旧約聖書をよく知っていたはずですが、また結婚もしていない乙女が子供を産むということは聖書にも例が無かった、だから最初は信じられなかったのです。御言葉を通して聞いていたことのに信じなかったザカリヤは罰を受け、マリヤはまだ聞いたこともないことなので、罰を受けなかった。それが違いです。

アブラハムとサラの場合はどうでしょう。17章で、アブラハムが神様からサラの出産を聞かされたとき、それはまさに聖書の中で最初の出来事です。しかし、サラは、夫から聞かされていたはずです。なのに、それを信じなかった。だから、咎められても仕方がない。では、何か罰を受けたでしょうか。いいえ、何も罰せられてはいません。

13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。 14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」

天使はアブラハムを通して、サラに言った、それは叱責ではなく、サラは笑ったという事実を告げたのです。ところが、自分がこっそり笑ったことを知られたので、サラは怖くなりました。15節。

15 サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

サラは、笑いませんでした、と嘘をついたのです。ところが天使は、ここでは神様の代理者ですから、「主は仰せられた」と書かれていますが、サラに対して「確かに、あなたは笑った」と再度、確認したのです。

神様は真実なお方です。ご自分の言われたことに対して真実を尽くされます。そして、人間にも真実であることを求められるのです。サラは自分が笑ったという事実をごまかそうとした。それが彼女の問題でした。神様の前でごまかしても、神様は全てご存じです。ですから、神様に対して事実を認める、それは時には自分の罪を認めることになります。たとえ、それが自分にとって不都合であっても、自分が神様に対して真実な生き方ではなかったことを認める、それが悔い改めです。そして、そのような間違いを認める心を、神様は受け入れてくださるのです。私たちは、どうでしょうか。御言葉に対して、信仰をもって受け止めているでしょうか。また、神様が聖書を通して、罪を示されたときに、ごまかすのではなく、神様の前に真実を認めているでしょうか。

サラは、認められなかった。彼女が信仰者として成長するには、もう少し時が必要なようです。では、一年後のサラに目を向けて見ましょう。

3.神は笑った(21:1〜7)

21章をお開きください。

21:1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。 2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。 3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。 4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。 5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。 6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」

神様はアブラハムとサラに告げられたとおりのことをされました。真実な神様は、かならず約束を守られるお方なのです。この神様に対して、アブラハムも言われたことをすぐに実行しました。先週の17章では、割礼を受けるように言われて、その日の内に実行しました。ここでも、生まれて八日目に割礼を施すようにとの御言葉を、その通りにした。それが信仰の父アブラハムの姿勢でした。サラはどうだったでしょうか。

サラは6節で「神は私を笑った」と言っています。この言葉は直訳すると、神様は私のために笑いを作られた、という言い方です。私のために笑いをつくる、それは、笑わせてくださったということ。すなわち、子供が生まれないために笑うことが出来なかった。神様から言われても不信仰の笑いしかできなかった。そのサラが、今、心から喜び笑うことができるのです。「神は私を笑った」、もう一つの意味は、神様が私に対して微笑んでくださった、恵みを与えてくださった、という意味です。6節のサラの言葉、「みな、私に向かって笑うでしょう」という台詞の中に、実は「イッツハーク」というイサクの名前が隠されています。聖書記者のダジャレです。神様の言われたとおり、そして名前の通りになったでしょ、と言わんばかりです。神様も決してサラを叱るのではなく、ほらごらん、私の言った通りだろう、とにっこり笑っておられるのです。

聖書の神様は、私たちをも笑わせてくださる神様です。別にダジャレが好きだというのではなく、私のためにも笑いを作ってくださるお方です。罪人であった者、聖書的な表現ですと、罪の子であったのに、それを神の子にしてくださったのです。死すべき存在であったのに、永遠の命を与えてくださった。過去の失敗をも恵みに変えてくださる。欠点をも生かして用いてくださる。そして天国に行ったときに、ニッコリ笑って、全部御言葉の通りだっただろう、と笑わせてくださる神様なのです。

まとめ.

小説の「少女パレアナ」の中で、聖書の中には「喜びなさい」ということが800回も教えられている、と書かれています。神様は私たちに喜んで欲しいのです。何をでしょうか。救われたこと、たくさんの恵みをいただいたこと、この神様と出会えたこと、もっともっと喜ぶことがあるはずです。それを忘れて、いつも難しい顔でいないでしょうか。自分の事です。いつも笑顔は出来ないかもしれませんが、特に教会に来たときには、救いの恵みを感謝し、喜び楽しもうではありませんか。ある教会では、礼拝はセレブレーション、お祝いであると位置づけています。厳粛さも大切ですが、笑いは禁物、というのは「喜べ」の教えとは違います。もっと楽しい教会、笑いにあふれた教会が日本にも増えて欲しいと思うのです。そのためにも、御言葉を通して神様の恵みにもっと触れ、たくさんの感謝を捧げて、喜びの人生を送ってまいりましょう。イエス様が十字架にかかってくださったのは、私たちが悲しみの人生ではなく感謝と喜びの人生を歩むためなのです。

 

(c)千代崎備道

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