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礼拝説教「あなたの名は」創世記17章1〜5節(〜14節)
 

今朝の説教題は5節から取りました。神様がアブラムの名前を新しくした言葉です。昔、「君の名は」という映画があったのを思い出してつけました。実は、もう一つタイトルを考えていました。それは、1節から「全き者になりなさい」という題です。でも、全き者、つまり完全な者なんて言われても、誰もなれない。私も無理です。人間は完全な存在ではありません。ところが、聖書は「なれ」と命じているのです。ノアやアブラムのような特別な人物だけではありません。イスラエル、すなわち神の民に対して、神様は「全き者でなければならない」と、モーセを通して命じておられます。旧約の民だけではありません。新約聖書でもパウロが教会に対して「完全な者になれ」と命じています。そしてイエス様ご自身が「完全であれ」と言われるのです。「なれ」と命じられてすぐになれるかは別として、真剣に考えなければならないことであるのは確かです。そこで今朝は、「全き者になる」とはどういうことかを、アブラムの場合を通して考えてまいります。いつものように三つのことをお話します。第一に「神の前に歩む」、第二に「神からの名前」。そして最期に「人によるしるし」という順序で進めてまいります。

1.神の前に歩む(17:1〜2)

もう一度、一節に目を向けましょう。

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

ここで神様がアブラムに対して「全き者であれ」と言われた、その意味は何でしょうか。神様は「私の前を歩み、全き者であれ」とおっしゃるのです。つまり、神様の前を離れては、人間は全き者であることができないのです。しかも、神様の前とは、全能の神の前です。では、全能の神様の前に歩むとは、どんなことでしょうか。先週も神様が見ておられる、ということをお話しました。いつも神様が見ておられる、と聞きますと、なんだか窮屈な気がするかもしれません。それなのに、神様の前で完全であれ、なんて不可能ではないでしょうか。

子供が小さいとき、幼稚園くらいまででしょうか、お父さんやお母さんはなんでも出来る存在に見えます。すごい、お父さんって、スーパーマンみたい、と思うわけです。ところが、子供が成長していきますと、小学生くらいで、メッキがはげてきます。どうも出来ないことがあるらしい、スーパーマンではないんだ、と気がつきます。スーがとれてパーマンになってしまいます。さらに中学・高校と反抗期になりますと、欠点がよく見えるようになり、親を批判するようになります。そうするとマンもとれて、パー。親を馬鹿にするようになる。ところが自分も大人になり、社会に出ますと、自分も欠点があることを認めるようになり、改めて親を見ますと、結構偉いんだ、と気がつくようになる。それが大人になるということでしょうか。小さな子供の前なら、完全な人間、スーパーマンを演じることもできるでしょう。しかし、全知全能の神様の目の前では、完全な者であることは絶対に出来ません。それが大切なことなのです。

アブラムが神様から「全き者であれ」と言われたのは、99歳のときです。だんだんと体が衰えてくる。特に、子供を産むということに関しては、人間的な可能性が無くなってきたときです。自分はもうダメだと思ったときになって、神様は「全き者であれ」とおっしゃるのです。若い時なら、一念発起して、完全な者となろうと努力したかもしれません。しかし、もうそんな無理は出来ない。そう認めざるを得ないときになってから「全き者」と言われたら、どうでしょう。私なら白籏をあげます。神様は、自分の力でなれ、とは言われません。むしろ、アブラムが、自分には不可能だ、と認める必要があったのです。自分の無力さを認めて、神様の前に降参したとき初めて、神様に頼ることが出来るからです。そのとき全能の神様、すなわち不可能の無いお方が、全き者にしてくださることができるからです。それが、全能の神の前で歩み、全き者であれ、という意味です。

神の前を歩む。それは、自分の力に頼り、自分で完全な生き方をしようとするなら、全てをご存じのお方の目の前では、大変緊張します、失敗は許されません、だから居心地の悪い場所です。しかし、ひとたび自分の弱さを認め、自分の力に頼る愚かさを捨てて、神様に頼り、神様に全てを委ねるとき、お便りするお方が全能の神であるというのは、どんなことでもお任せできるということです。ですから、神の前は窮屈ではなく、どこよりも安心できる場所となります。その神様の前にいることが、「全き者」なのです。イエス様が「あなたがたは、私を離れては何一つすることができない」と言われた。ですから、イエス様から離れないで、共におるなら、何でも出来るということです。

アブラムは、3節、神様の前にひれ伏した。降伏したのです。16章では、自分の力で、人間の知恵に頼って、子供を作ろうとした。その過ちに気がつき、悔い改め、全能の神様に全てを委ねた。そのとき、神様が彼を全き者に作り変えてくださるのです。

2.神からの名前(17:3〜5)

神様は5節で、アブラムに新しい名前を与えました。アブラハム、です。聖書の中では名前は実質を表します。「名は体を表す」と日本の言葉がありますが、そういうことです。ダビデとは「愛される者」という意味で、ダビデは誰よりも神様から愛された人でした。イエスとは「主は救う」という名前で、救い主に相応しい名前です。しかし誰もが名前の通りになれるかというと、反対に名前負けという場合もあります。親が牧師で、子供に期待をして名前を付ける。宣道とか従道とか、備道。いかにも伝道者になって欲しい、という名前を付けますと、付けられた方はプレッシャーを感じます。でも、まあ、伝道者になれ、というくらいなら、まだ何とかなるかもしれませんが、美しくなれ、とか、だって、顔は親に似るわけですから、..。これ以上言いますと、差し障りがありますから、やめておきます。

人間は名前の通りになることが出来ないかもしれません。しかし、神様が名前を与えられたというのは、神様がそうしてくださる、新しい名前は新しい存在としてくださることを意味します。光あれ、と言われたお方が、アブラハムとなれ、全き者であれ、と言われるのです。ですから、アブラムが自分の力でなるのではないのです。

ところで、ヘブル語の名前の意味ですが、アブラムとは「高貴な父」という意味です。アブラハムとは、「ハ」が挟まった。昔、子供の頃、聖書ナゾナゾ、みたいのがありまして、聖書の中で入れ歯をしたのは誰?答えはアブラハムで、アブラムからアブラハムになって、歯が入ったから。もちろん、これは子供向けのお遊びですが。アブラハムという名前の意味は「多くの国民の父」です。神様が子孫を数え切れないほどにし、彼の子孫から多くの国民が誕生する。まさに神様がそうしてくださるのです。ところで、アブラムがアブラハムに変えられ、この箇所から、ずっとアブラハムと呼ばれるようになります。キレイに切り替わっています。ところが、彼の孫であるヤコブも、イスラエルという新しい名前をいただくのですが、ヤコブの場合は新しい名前をいただいても、すぐにイスラエルとなるのではなく、またヤコブに戻ったり、イスラエルになったり、と一生の間、行ったり来たりします。神様が新しい名前を与え、新しい存在とするのですが、それは人それぞれによって現れ方が違うようです。ある人は、救われた時に急に今までとは違った人になるケースもありますし、他の人は、徐々に変わる。あるいは、クリスチャンになって、前とは違う生き方になったと思ったら、また前のようになって、また新しくなって、と行ったり来たりの人もいるかもしれません。でも、人間の目には変わっていないように見える場合でも、神様は確実にその人を作り替えておられるのです。サライはサラと名前が変えられますが、サライの意味は「王女」、サラの意味は「王女」、実は同じ意味なのです。じゃあ、サライはあまり変わらなかったのか、いいえ、神様はこのサライからイサクを産ませてくださった。大きな変化があったのです。

私たちも新しい存在に変えられた者です。クリスチャンになるとき、カトリックなどの古い伝統のある教会では、洗礼を受けたときに洗礼名というのをいただきます。新しい伝統の教会では洗礼名は無いのですが、聖書の中には、神様が新しい名前を与えるという表現がありますので、たとえ同じ名前であっても、救われる前と後で、違う人間とされているのです。誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。また、永遠の命をいただき、新しい命に生きる者とされたのです。

エペソ書では、(開かなくて結構です、気になるかたは、週報の内側、右のページに印刷されていますのでご覧ください)パウロは「古い人」「新しい人」という表現を使っています。古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着なさい。なんだか肉襦袢を着るみたいですが、そのときに古い人を着たままですと、大変です。試着室で服を着たまま、上から新しい服を着たら、きつくて入らない。脱いだら入るわけです。脱いでも入らない場合は、・・・。すみません、脱線でした。古い人を着たまま、すなわち、古い生き方を手放さないで、新しい生き方を形だけまねしようとすると、上手くいきません。古い生き方を脱ぎ捨てる。そのとき神様が新しい人を着せてくださるのです。新しい存在、新しい名前としてくださるのです。

新しくされ、それが具体的に変えられていく様子は、人により異なります。でも、変えるのは神様です。自分の力ではありません。神からの名前なのです。では、人間は何をしたら良いのでしょうか。

3.人によるしるし(17:9〜14)

神様がアブラハムに与えられた約束、アブラハム契約は、神様からの一方的な恵みです。神様がアブラハムに祝福を与え、子孫を与え、子孫に土地を約束してくださいました。しかし、一つだけ、神様がアブラハムに求めた条件があります。それが9節から、少し長いのですが、14節までお読みします。

9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。 10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。 11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。 12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。 13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。 14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

割礼というには男性の体に傷を付けるのですが、これは契約のしるしであって、契約そのものではありません。アブラハムの子孫以外にも割礼の儀式を行う民族があります。古い時代のエジプトでもそのような文書が見つかっています。でも、その割礼は、神様との契約ではありません。ですから祝福の契約を結んでいることを目に見える形で表し、その印としたのがアブラハムの割礼です。おもしろいのは、アブラハムの直接の子孫でなくても、イスラエルの民の中に寄留している外国人も、一緒に割礼を受けなければならない。アブラハムの場合ですと、家にいる奴隷も対象となります。ですから、神様は、アブラハムの祝福をもっと広く及ぼそうとされておられるようです。ところが、これは男性だけのことでして、女性は除外されている。じゃあ、女性は祝福が受けられないのか、そうではないわけです。サラは祝福を受けています。ですから、割礼という形が重要なのではない、ということです。形じゃなければ、何が重要か、それは、割礼の意味です。

エレミヤ書では、エレミヤというのはイスラエルの歴史の末期の預言者です。割礼を受けている民が、滅びようとしている。それは、形だけ契約を守っているようですが、中身が伴っていない。そこでエレミヤは「心に割礼を受けよ」と教えています。それは、神様に逆らう強情な心を悔い改め、素直に従う、という意味です。同じ事を新約聖書では、使徒の働きの中でステパノが語っています。聖霊の言葉に聞き従うこと、それが心の割礼です。聖書を通し、また神様が心の中に語りかけてくださったとき、その御言葉に素直に従う。ところが、いろいろと理由を付けて逆らうのが頑なな心です。頑固な心ですと、神様も新しい存在として造り変えにくいのです。お医者さんが治療をしようとするのに、イヤだからと抵抗したら、やりにくいし、時には危険です。痛い目にあうことになります。素直に任せるなら、やりやすい。神様の前で、素直な心になり、お任せして作り替えていただく、それが心の割礼ということです。

神様は、悔いた砕けた魂を軽しめられない、と書かれています。砕かれた心とは何でしょうか。私たちは自分の心の中の傷を隠し、痛みを守ろうとします。弱さをさらけ出すのではなく、自分を偉く見せようとします。そして、神の言葉を拒み、古い生き方に固執する。そのような強情な心を、神様の前に認め、降伏し、神様にお任せするとき、神様は喜んで受け入れてくださるのです。アブラハムは、この後、その日の内に家族全員に割礼を受けさせました。すぐに行う素直さです。体と共に心にも割礼を受けたとき、神様が取り扱ってくださいます。

まとめ.

「全きもの」、これはヘブル語では「ターミーム」という言葉が使われます。この言葉の意味を、先日、ある旧約聖書の学者の講義を聴く機会があったのですが、その先生は、ターミームとは、素直に間違いを認める心だと説明しておられました。アブラハムが割礼を受けた、それはそれまで自分の力に頼ろうとした自分の失敗を認め、神様に全てを委ねて、御言葉に従うことの現れだったのです。

神様は、アブラハムだけでなく、私たちにも「全き者となりなさい」と招いておられます。神様の前を歩む、新しい存在となるようにと計画しておられるのです。それがなかなか実現しないのは、私たちの側で、それを拒むからです。御言葉により示されたとき、頑なにそれを拒むのではなく、素直に受け入れ、神様の御手に全てを委ね、神様のお考え通りの存在に作り替えていただきましょう。

 

(c)千代崎備道

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