はがい 礼拝説教「見ておられる神」創世記16章6〜9節(16章)

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礼拝説教「見ておられる神」創世記16章6〜9節(16章)
 

序.

最近はあまり聞かなくなりましたが、以前は「お天道様が見ているよ」という言葉がありました。「お天道様が見ているんだから、誰も見ていなくても悪いことはしてはいけない」という意味で、日本人の倫理観にとって大きな影響があったと思います。今では、誰も見ていないから何をしても良い、とか、誰が見ていても好きなことをする、と、なってしまっているような気がします。聖書の神様は全知全能のお方です。ですから、「神様が見ておられる」と教えています。神様に見られている、と聞くと、どんな気持ちでしょうか。ある人は、いつも神様に見られていると、窮屈な気がする。見られるのがイヤだという方は、見られたくない何かがある、ということでしょうか。反対に、神様が見ていてくださるから、安心だ、という考えもあります。

今朝の説教のタイトルは、16章13節の「エル・ロイ」という言葉からとりました。「エル・ロイ」とは「見ておられる神」というような意味です。ハガルという一人の女性の言葉です。このハガルの身に起きた出来事を中心に、神様の救いとはどのようなことなのかを考えてまいります。いつものように、三つのポイントに分けてお話いたします。第一に、アブラムの失敗、第二に、ハガルの救い、そして最期に、神の計画、という順序で進めてまいります。

1.アブラムの失敗(16:1〜6前)

先週は、15章から御言葉を取り次がせていただきました。そこでは神様が、アブラムに子供が生まれることを約束しておられます。彼はそのことを妻であるサライに伝えたはずです。しかし、サライはずっと子を産むことが出来なかったと書かれています。きっとサライも責任を感じたのでしょう。どうにかしなければいけない。彼女は、神様の約束を実現するために、何をしたかと言いますと、2節。

サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

これは当時の社会ではよくあった風習です。こんなことをするなんて、と疑問に思われるかも知れませんが、日本でもほんの百年くらい前までは、大奥などで行われていたことと同じです。とは言っても信仰の父とも呼ばれるアブラムが、こんなことをするとは、と思うのは当然です。聖書の中の人物は決して品行方正ではありません。むしろ、聖書は人間のありのままの姿を描いています。でも、それは何をしても良い、ということではありません。もし間違ったことをしたら、かならずその結果が伴います。アブラムの場合はどうだったでしょうか。4節。

彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。

家庭内にトラブルが起こった。このことから、間接的にアブラムのしたことは間違っていたことが分かるわけです。自分の奴隷が自分に従わなくなった。サライはその不満をアブラムに訴えます。5節。

そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

サライさん、ちょっと待って、そもそも自分が始めたことでしょう。結果が悪かったら、夫のせいにするんですか、と言いたくなります。でも、当時は男性中心の世界です。ですから、サライが言ったことを聞き入れたアブラムに責任がある、ということです。男尊女卑とは、男性が責任を持つ、ということで、アダムとエバのばあいも、まずアダムに責任が問われています。さらにアブラムの間違っていたのは、サライに文句を言われて、責任を放棄したことです。6節。

アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

さて、倫理的な問題は文化の違いだとしても、アブラムのしたことは、信仰者としてどうだったでしょうか。15章では、アブラムは「子孫が星のように多くなる」と言われて、神様を信じた。その信仰を神様も認めてくださったのでした。ところが、16章では、子孫を増やすことを人間の方法で実行しようとした。信仰なのか、行為なのか、です。ガラテヤ書の中でパウロが「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」という言い方をしていますが、信仰によって始まったことを、行いによって成就させようとする、そこに問題があるようです。

決して、行いがいけないのではありません。信じたんだから、何もしない、ということではない。ただ、その行いが信仰に根ざしているかが問われるのです。信じて行うのか、それとも、信仰の代わりに行いをするのか。このときのアブラムのしたことはどうだったでしょうか。16章ではアブラムは一度も神様に祈っていないのです。この方法でも良いのかどうかを、神様に尋ねていない。ですから、アブラムは神様の言葉よりも妻サライ、すなわち人の言葉のほうを優先させていた。そこにアブラムの不信仰な状態が示されています。神様は彼の失敗をも哀れみを持って受け入れてくださるのですが、しかし、このときの不信仰のために、アブラムと神様との間に溝が出来てしまった。16章の最期を見ますと、ハガルが子供を産んだのが86歳のとき、と書かれています。そして次に神様の言葉がアブラムに望んだのは、17章1節、アブラムが99歳の時。実に13年以上、神様との交わりが損なわれてしまったのです。信仰によって義と認められたのに、神様を信頼せずに自分の力に頼った、その結果です。

これは私たちへの警告でもあります。あるときは信仰で、でもある時は信仰ではなくて行いに頼る。上手く使い分けるというのは、決して神様の喜ばれることではありません。何をするときでも、神様への信頼を忘れてはならない。それがアブラムの失敗が教えていることです。

さて、16章で神様はアブラムに対して沈黙しておられますが、誰に対して語られているでしょう。神様が御使いを送られたのは、女奴隷のハガルにでした。

2.ハガルの救い(16:6後〜9)

神様はつらい状況にあったハガルを救ってくださいました。ハガルとは、どんな人間でしょうか。まず、エジプト人です。創世記の次の出エジプト記以降は、エジプトは罪の国のシンボルとされます。まだアブラムの時代はそうではないとしても、神様がアブラムに約束された祝福を基準に考えるなら、神様の祝福の歴史からはずれているということです。誤解の内容に付け加えておきますが、預言者の時代になって、エジプトを始め、異邦人も祝福に与るような時代が来ると預言されて、新約時代にはキリストによる救いはパウロを通して異邦人に伝えられて行きます。ただ、創世記の文脈で、まだそこまでは行っていないということです。ところで、なぜエジプト人の奴隷なのかと言いますと、以前にアブラムが飢饉を逃れてエジプトに行きました。彼はそこで失敗をした。そのときにエジプトの王様からたくさんの牛や羊と共に、男女の奴隷も財産としてもらった、その中にハガルもいたのでしょう。エジプト人であること、それから奴隷であること。家畜と一緒に数えられる時代です。さらにハガルは女主人から逃げた、逃亡者です。奴隷の逃亡は大きな犯罪でした。見つけられたら連れ戻されて、重い罰を受けなければならない。当時の人から見たら、ハガルが逃げ出したエジプト人の奴隷であることは、価値のない存在だということです。しかし、神様は違います。アブラムではなく、ハガルに声をかけてくださるのです。救われたのはハガルなのです。

ではどのように救ってくださったでしょうか。9節。

そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

なぜ、これが救いなのでしょうか。このまま逃がして自由の身にしてあげたら良かったのに。しかし、逃げることは彼女を犯罪者にしてしまう時代です。一番正しいことは、主人のもとに帰り、そしてサライのもとで身を低くすることだと、神様は教えられたのです。逃げ出すようになった原因は、ハガルがサライを見下すようになったからです。その原因を取り除くなら、問題は解決します。最初はしかられたとしても、奴隷として謙って仕えるなら、サライもいじめる理由はない。そして、アブラムの家の中で保護を受けることが出来ます。

さて、この章の出来事は、いったい誰の罪により引き起こされたことでしょう、そして誰が救われているのでしょうか。第三者として見るなら、原因を作ったのはアブラムとサライです。ハガルは被害者でもあります。なのにハガルが苦しみを受け、そして神様はハガルを救われた。なんとなく理不尽な気がします。でも、神様の言葉は、第三者に対してではないのです。ハガルに対してはハガルだけに問いかけられているのです。確かに彼女を取り巻く状況を考えるなら、悪いのはアブラムでありサライです。でも、神様は「あなたはどうなんだ」と問いかけるのです。たとえ他者の罪の故に苦しんでいたとしても、ハガルの罪を指摘されるのです。8節で、「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」、ハガルは「私の女主人サライのもとから逃げているところです」。なぜ、逃げたのか。それはサライがいじめられたから。なぜサライがいじめたのか。それは彼女が女主人に対して横柄な、傲慢な態度をとったから。そこに彼女の罪があり、逃げていること、それもハガルの罪なのです。神様は他の人の問題ではなく、ハガルの罪からハガルを救ってくださるのです。ここに神様の救いがどのようなものであるか、原則が示されています。

聖書の中には奴隷が出てきます。僕とか召使いと表現されても、同じことです。神様は奴隷制度を勧めているわけではありませんが、否定もしていない。何故でしょうか。旧約だけでなく、新約時代になっても、パウロはオネシモという奴隷が主人のもとから逃げ出したとき、彼を主人のもとに帰していることが、ピレモン書に書かれています。神様は奴隷制度という社会問題を解決して奴隷を救うことはしませんでした。ローマ帝国の社会に問題があっても、革命を起こしたりはしなかったのです。その代わり、奴隷も主人も救われることを通して、身分制度はそのままでも、人間関係が変わったのです。主人は奴隷を人間として取り扱い、奴隷は主人に、イヤイヤではなく心から仕える。制度を変えることなしに問題を解決するのが神様の方法です。これを私たちに当てはめるなら、どうでしょうか。

ハガルにとって、問題はサライの態度です。それを許しているアブラムのふがいなさです。しかし、神様はそのような彼女を取り巻く状況には一言も触れていないのです。周囲を変えるのではなく、その状況の中で、彼女自身を取り扱われたのです。ハガルが変えられたとき、周囲も変わるのです。じゃあ、サライの罪はどうでも良いのか。それは、神様がサライ自身に対して問いかけることです。ハガルに対しては、神様はハガルへの事を告げられるのです。そして、それは、ハガルが考えてもみなかったことでした。

最期に神様のお考えに目を向けます。

3.神の計画(16:10〜16)

10節からお読みします。

10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

11 さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。

ここで神様はハガルに、彼女の子孫が数え切れないほど多くなる、と約束されています。これはアブラムが受けた約束と同じです。彼女がエジプトの奴隷であったことを考えるなら、驚くべき祝福です。さらに生まれている子供に神様が命名しておられる。旧約では名前は重要なことです。神様から直接名前をいただいた人がどれほどいるでしょうか。しかも彼女は異邦人です。これも身に余る栄誉です。さらに、その名前が良い。「イシュマエル」とは「神は聞かれる」という意味です。何を聞かれるのか。「あなたの苦しみを聞かれた」と書かれています。ハガルはアブラムの神のことを聞いていたでしょうが、信仰をもっていたかは分かりません。ですから、逃げたときも、祈ったとは書かれていない。でも彼女の祈りにもならない苦しみ、心の中の叫びをも、神様は聞いてくださったのです。彼女が知らなかったときも彼女のことを神様は見ていてくださった。彼女の今の状況だけでなく、これまでの過去も、これからの未来も、神様は見ていてくださる。この16章で、誰が一番、恵みをいただいているでしょうか。それは理不尽に苦しめられていたハガルです。イスラエル人が見下していた異邦人、社会的に蔑まれていた奴隷です。でも、神様の救いの計画は、彼女にも及んでいるのです。

ハガルは言いました、「あなたはエル・ロイ」、見ておられる神です。でも、どうせ見ておられるのなら、もう少し早く助けて欲しかった、と言うかもしれません。これまでは、じゃあ見ているだけ、だったのか、なんであの時に救ってくれなかったのか、と文句を言いたくなる。いいえ、そうではありません。神様は決して見ているだけ、ではない。ただ、救いには神様の時があるのです。神様の計画があるのです。もし、もっと早い段階で問題が解決されたら、ハガルは神様から直接に約束の言葉をいただくことも無かったし、自分のようなものでも見ていてくださる神様を知ることも無かったでしょう。ただ利用されただけで終わってしまいます。反対に、もっと遅かったら、彼女は犯罪者となるか、あるいは荒野で倒れたかもしれません。神様は最善のタイミングで救ってくださるお方なのです。

神様が私たちのことを見ておられる、それはいつでもどこでも思い通りになるということではありません。でも神様は見ておられるだけでもない。神様のお考えがあり、私のための計画をもっておられるのです。神様の時が来たなら、その救いの計画を実行してくださる。ただ、私たちの考えが神様のお考えと違うために、待たなければならないこともある。だから、信仰には忍耐が必要なのです。それは神様が意地悪をして遅くしているからではなく、私たちの願いが神様から離れているからです。しかし、待たされたとしても、期待していたことと結果が違っていたとしても、神様の時が最善であり、神様の計画は何よりも素晴らしい祝福なのです。アブラムはこの後、13年間、待たされます。それは彼の不信仰の結果ですが、同時に、神様の栄光が表されるためでもあります。やはり神様の時があるのです。ハガルにはハガルに対して、アブラムにはアブラムに対して、神の時と計画がある。ですから、私たちも、私に対する神様のご計画を信じて、信仰をもって待ち望むことが、一番の大切なのです。

まとめ.

神様は私のことも見ておられる。でも、時々、見捨てられたと思うようなことがないでしょうか。たとえ、そのように感じることがあったとしても、神様は見捨てずに見守っていてくださいます。しかも、私は全ては見えません。過去も現在も、私たちが知っているのは一面だけです。でも神様は全てを過去も現在も、そして未来もご存じです。私たちは目の前の様子だけを見て、右か左かを迷います。でも神様は先の先までご存じです。だから、神様を信頼し、神様の導きに従うことが一番良いのです。神様が恵み深いお方であること、そして愛をもって計画を立ててくださり、救いを成就してくださることを信じ、御言葉に従って進んでまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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