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礼拝説教「勝利の後にどうするか」創世記14:17〜21
 

序.

「患難汝を玉にする」ということわざがあります。聖書の中では「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」と教えられています。テレビなどでも困難の中にあった会社がどのように立ち上がって業績を上げたかという成功物語がたくさん出てきます。しかし、その反対もあります。かつては栄光に満ちていたスターが、犯罪に手を染めて転落する、そんなニュースもテレビを賑わせています。勝利の後にどうするか、それによってその後の人生が大きく違ってくるのです。今朝は創世記のアブラムが大勝利を納めた箇所から、勝利の後にどうするか、ということを考えてまいります。いつものようにお話を三つに分けてまいります。第一に「奇跡の大勝利」、第二に「神からの使者」、そして第三に「危険な提案」という順序でお話しいたします。

1.奇跡の大勝利(14:1〜16)

さて、先ほど司会者の方には17節から読んでいただいたのですが、その前、1節から16節、そこはカタカナの名前がたくさん出てきますので、読むのに骨が折れるところです。ですので、簡単にかいつまんでお話ししますので、後でお帰りになってからお読みいただければ、と思います。

中近東世界の歴史は戦いの歴史です。大帝国が興って周囲の国々を征服する時代もありますが、帝国が無かった時期は平和かといいますと、小さな国々が争い合っておりました。アブラムの生きていた時代は、まだアッスリヤもエジプトも大きな勢力ではなかった。その代わり、東のほう、今のイラクやイランのあたりの四人の王様が同盟を組んで、周囲の国々を支配しようとしておりました。アブラムの周囲では、現在の死海の周辺にあった5つの小さな国々の王が連合して、支配を脱しようともくろんでいた。でも、それが東の四王の知れるところとなり、戦いになりました。当時のことは世界史におきましてもあまり資料が残っておりませんので、ここに出てくる国々の大きさや軍隊の規模は分かりませんが、少なくとも数千、あるいは数万の軍隊が送られてきた。死海周辺の王たちは、国といっても小さな町です。まともに戦ってはひとたまりもありません。戦いに敗れ、人間は捕虜として連れて行かれ、財産はぶんどりものとされてしまいました。この時代のよくある出来事です。

ところが、この事件がアブラムにとって重要だったのは、甥のロトがまきこまれてしまったからです。ロトは死海周辺にあったソドムの町に住んでいました。ソドムは五王連合の中心の町です。ですからロトの家族も捕虜として連れて行かれてしまった。そのニュースがアブラムに伝えられました。この頃の物騒な情勢の中で、アブラムは同じ地域に住んでいた者たちと仲間になって、いざというときは助け合う、という約束を結んでいました。ですから仲間と共にロトを取り返すために出ていったのです。そのときアブラムが連れて行ったのは318人、口語訳聖書では「訓練された僕」と訳されています。戦うことの出来る僕がそれだけいた、ということは、アブラムの僕は老若男女併せると千人近くになっていたと考えられます。それでもまだ一つの国とはならないのです。特に戦争になれば、少数派であることは間違いありません。

聖書の中に少ない人数で大軍に立ち向かった例がいくつか出てきます。有名なものでは、ギデオンの300人、数万の軍隊に300人で戦いを挑んだ。このときのアブラムも似たようなものです。まともに戦っては勝ち目はありません。アブラムたちは夜の闇に紛れて戦いをしかけました。連戦で疲れていたこともあったのでしょう。寝ぼけていたトコロをおそわれて、敵軍は混乱しました。逃げていくところを追いかけられ、敵はせっかく奪った財産も何もかも、捨てていったのです。こうしてアブラムはロトの家族、その財産を奪い返し、また敵軍が奪ったソドムや他の町の住民や財宝も奪い返したのでした。

ここまでを読みますと、アブラムの作戦がちといったところでしょうか。しかし、何かを忘れています。それは、神様の助けがなかったら、本当は勝つことは出来なかった、ということです。1節から16節には、一言も神様の名前が出てきません。それはアブラム自身も忘れていたことを示しています。人間だけの世界の出来事であるかのようです。

私たちの生活においても、苦しいとき、困ったときには神様に祈りますが、うまくいっているときや、特に忙しいとき、祈るどころではない、聖書を読む時間なんてない、そんなことがあります。すると、何でも自分の力でできているように錯覚してしまうのです。目には見えなくても神様が助けていてくださることに気がつかないことがあります。すると、成功や勝利の後に失敗してしまうのです。このときのアブラムはそんな状態でした。大勝利が奇跡であったことに気がついていなかったのです。

2.神からの使者(14:17〜20)

さて、17節では、戦いに勝って意気揚々と帰ってきたアブラムに、ソドムの王が会いに出てきた、そこに突然現れたのが、メルキゼデクという王様です。18節。

18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。

シャレムというのは後のエルサレムのことと考えられています。そのシャレムの王は、王であると同時に祭司であった。政治と宗教が一体化することも当時ではよくあることです。ただ、不思議なのは、このメルキゼデクの拝んでいたのは「いと高き神」、それは天地を造られた神です。私たちは旧約聖書では天地創造の神様を拝むのはイスラエルだけ、と思いがちですが、それ以外の人々の中にも同じ神様を信じている人がいた。それはノアから語り伝えられていたことを示しています。ですから、この祭司であり王であるメルキゼデクがアブラムと同じ神様を信じていたことはあり得ないことではありません。ただ、このメルキゼデクについては、聖書の中では神秘的な人物として受け止められているようです。お帰りになってからヘブル書の7章あたりを読んでいただきますと、新約時代の信仰者たちの理解をうかがい知ることができます。メルキゼデクは、どの民族に属しているか分かりません。系図がないので誰の子孫か分からない。この謎の人物が突然に現れて何をしたかといいますと、まず、戦いで疲れたアブラムたちに食料を持ってきた。そして、アブラムを祝福する祈りを捧げています。この祈りが大切です。19節。

19 彼はアブラムを祝福して言った。

「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。
20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」

この祈りを聞いたとき、アブラムははっとしたのではないでしょうか。そうだ、私には祝福してくださる神様がおられた。敵に勝つことができたのも神様が助けてくださったからだ。勝利も神様の与えてくださった祝福だ。忘れかけていたことです。自分の力で勝てたと、思いそうになっていた。そのことに気がついたとき、アブラムは神様に勝利の感謝を捧げた。それが10分の1を祭司であるメルキゼデクを通して捧げたということの意味です。

私たちが忘れていることを気がつかされることがあります。聖書を読むとき、目が開かれるのもそうです。また他の人の言葉で大切なことに気がつくことがあります。ただ、それも自分や他の誰かがしたことであるとともに、神様が気がつかせてくださったことを忘れてはなりません。アブラムにとってメルキゼデクは、神様から遣わされてきた使者だったのです。もちろん、シャレムからわざわざアブラムに会いに来た、人間的な事情もあったでしょう。しかし、それはアブラムにとって問題ではない。神様のことを思い出させてくれた、だから感謝が生まれたのです。

もし、このときアブラムが神様のことを思いだしていなかったら、勝利に酔いしれていたら、どんなことになったか、それを次のソドムの王の言葉から考えてみましょう。

3.危険な提案(14:21〜24)

21節。

21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」

日本語の翻訳は、きれいな文章にするために敬語や丁寧語を用いていますが、原文では、ソドム王の言葉はかなり乱暴です。

「人は私に返せ、財産はお前が取れ」、と訳すとかなり感じが違います。言葉だけではありません。メルキゼデクがパンとブドウ酒を持って来たことと比べますと、ソドムの王の態度は尊大です。自分は戦いに負けて逃げ出した。アブラムは敵に立ち向かって勝利した。ですから、中近東世界でしたら、ソドムの王はひれ伏してアブラムを迎える、それが普通です。そして、当時は戦争で勝利した者が財産や人を所有する権利を持っているのが常識です。ですから、ソドムの王から「人を返せ」という権利は無いのです。ここら辺は現在の私たちの常識とは少し違うことを知りませんと誤解してしまいます。先ほど、アブラムが十分の一をメルキゼデクに渡したのですが、何の十分の一か。戦いに行くときですから、自分の財産を持っていくはずはありません。ぶんどり品の十分の一です。これも、もともとは人のものじゃないか、というのは現代人の考えで、当時の世界では、勝ったアブラムのものなのです。

さらにソドム王の言葉には裏があります。人は自分がとって財産はアブラムのもの、というのは謙遜なように聞こえますが、人々を取り戻しておけば、こっちのもの。財産はあとから取り戻すことができますし、ついでにアブラムの財産を奪うことも出来ます。アブラムが言われた通りに財産を取ったら、戦争をしかける口実を与えることになるのです。ですから、このソドムの王の言葉は巧妙な罠でもありました。アブラムがこの危険性に気がついていたかは分かりませんが、彼がこの提案を受けなかった理由はもう一つあります。

メルキゼデクの祈りでアブラムが思い出したのは、神様がアブラムを祝福してくださるという約束です。ですから、戦争で相手から奪う必要はない。アブラムは捕虜だけでなく財産もソドムの王に返すことにしました。22節。

22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。

これは、ソドムの王だったら言いかねないということです。戦いに負けたのに、なおアブラムに尊大な態度を取る人物です。たとえ少しでもアブラムが自分の分け前を取ったら、それを口実に、自分を功績を誇るのがソドムの王でした。アブラムは神様の祝福の約束を思い出したゆえに、危険な提案を退けることができた、それと同時に、大切な証しをたてることができました。それは、人に頼るのではなく、神様のみに頼る信仰です。アブラムを富ませる、すなわち祝福することが出来るのは神様だけだ。ソドムの王ではない、いや、自分の力でもない。勝利することができたのも、財産を築くことができたのも、神様のおかげだ。これによって、栄光を自分ではなく神様に帰することができたのです。

私たちが成功したとき、勝利したときに陥りやすいのは、この危険性です。まるでそれが自分の力で出来た、と思ってしまうのです。たとえ、自分の努力や才能があっても、それを与えてくださったのは神様です。良い結果になる環境を用意しておられるのも神様です。それを忘れ、自分の栄光としたときに、失敗が始まります。物事が上手くいったときこそ、神様の前に謙遜になることが必要なのです。

まとめ.

メルキゼデクは言いました。「アブラムよ、神様から祝福を受けよ、そして神様に誉れあれ」。これこそ、主を信じる者の生き方です。主に全ての栄光をお返しする人生なのです。

来週のことですが、来週の礼拝は山根先生が亡くなられて20周年を記念する礼拝となります。お二人の方がお証しをしてくださいます。礼拝で皆様の前で話すのは、大変なことです。準備も大変でしょう。ぜひお祈りください。私も来週の備えをしている中で、何度も山根先生の本を読み直しています。そしてこれこそ、主に栄光をお帰しする人生であった、と思わされました。私たちもこの信仰の財産を受け継ぎ、栄光を主にお捧げする者となりましょう。

 

(c)千代崎備道

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