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礼拝説教「右か左か、それが問題だ」創世記13:1〜18
 

序.

誰でも一度や二度は、人生の岐路ともいうべき時があったのではないでしょうか。右に進むか、左に進むか。真剣に悩むわけです。

さて、言うまでもありませんが、今朝の説教題は、あの有名なセリフのもじりです。生きるべきか死ぬべきか、というハムレットの一節です。「To be, or not to be, that is the question」、これには様々な翻訳があるそうです。一番古い訳では、「アリマス、アリマセン、アレワナンデスカ」。思わず、何ですか、と言いたくなります。久米正雄という人の訳では、「生か死か・・・・・・それが問題だ」。いろいろな訳を見ていますと、翻訳者の苦労が分かります。

さて、はじめに戻りまして、誰でも人生の岐路には悩みます。そして悩みつつも何かの判断を下すはずですが、そのとき、どのような決断をするかで、その人自身が問われているのではないでしょうか。特に私たちは、クリスチャンとしての判断がどうあるべきか、が問題です。重要な決断において、その人の信仰が真価を問われるのです。受験、就職、結婚、あるいは住む場所、様々な選択があります。そのとき、信仰により、神様の御心にそった道を選ぶことができたら、幸いです。

今朝は、アブラムが一つの選択をする記事から、信仰による決断ということを、みなさんと共に考えてまいります。いつものように、三つのポイントにお話を分けます。第一に「信仰による決断」、第二は「この世に頼る決断」、そして第三に「神の計画」という順序でメッセージを進めてまいります。

1.信仰による決断(13:1〜9)

先週は12章の後半からお話しましたが、そこではアブラムが不信仰に陥って失敗をしました。失敗はしましたが、彼はそこから学んだようです。13章では信仰に立ち帰っている。そのことを示しているのが、3節に出てくる地名です。彼はベテルとアイの間にとどまりましたが、そこはアブラムが初めて神様の名前で祈った場所です。彼は信仰の原点に立ち帰った、ということです。ところが、その場所で一つの難しい問題が起きました。

その問題とは、所有物、すなわち財産に関する事でした。旧約聖書の人々は、神様の祝福とは具体的なものと考えていたので、長い寿命や多くの財産が祝福のしるしと見ていました。しかし、聖書は多くの財産が時には問題の原因となることも記しています。エジプトから戻ったアブラムとロトの家族は一緒に行動していましたが、多くなった家畜が食べるための草が足らなくなってきたのです。6節。

6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。

食糧問題です。さらにそれが原因で、それぞれの僕が争うようになったのです。これ以上一緒に行動することはできない、ならば別々の場所に移るのが唯一の解決です。それでアブラムはロトに提案しました。9節。

9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

このアブラムの言葉を理解するには、二人の関係を考えることが必要です。アブラムは三人兄弟でしたが、長男はハランで、その息子がロトです。ハランはアブラムが国を出るまえに亡くなっています。ですからロトにとっては叔父のアブラムは父親代わりで、全てのことはアブラムが決定するのが習わしです。年齢もアブラムの方がかなり上だったと考えられます。ですから、ここでアブラムが選択権をロトに譲ったのは異例のことなのです。普通だったらアブラムが自分で良いと思う方の土地を選び、ロトは文句も言えない、それが当然です。それなのにアブラムはロトに権利を譲った。なぜでしょうか。それはアブラムの信仰です。神が祝福してくださるのだから、荒野のような地域であっても、必ず祝福されるに違いない。だから、無理に自分の好む方を選んで、ロトとの関係にひびを入れるよりも、甥に選ばせよう。自分に自信があったからではなく、神様に対する信頼があったからこそです。

アブラムの信頼の源泉は、御言葉です。「あなたを祝福する」との約束があったから、神様を信頼したのです。私たちも御言葉を信じて、大事な決断をしましょう。信仰による決断、その基準は神の言葉です。しかし、何でもかんでも聖書を読んだら答えが見つかるわけでもありません。そんなとき、どうしたら良いか、悩みます。もし、二つのうち、どちらかを選ばなければならない場合、損だと思う方を選びなさい、と父が説教の中で語ったことがあります。調べてみたら、誰かから教わったことらしいのですが。でも、大切なことです。得するほうを選ぼうとすると、そこに欲が働きます。アブラムの場合は結果的には損な方を選ぶことになるのですが、どちらを選んだかではなく、選ぶ前にまず神様に信頼した。それが信仰による決断です。まず神様を第一とし、信仰を一番に考えるか。それとも、自分の好き勝手に選び、信仰は後から付け足すか。神様の御心を求め、それに従う決断をしましょう。

2.この世に頼る決断(13:10〜13)

さて、今度はロトの判断を考えてみましょう。彼はアブラムが故郷を離れるとき、一緒について行きました。もう一人の叔父ナホルはとどまったのですから、ロトも残ることができたはずです。しかし、ロトはついていった。アブラムを慕って、ということもあるでしょう。しかし、一緒に旅をする中で、確かにアブラムが神様に祝福されているのを見るときに、自分も祝福を受けたいと願うようになる。それは誰でも同じ思いを持ちます。アブラムと一緒にいる間にロトの所有物も増えました。これは神様がアブラムに「全てのひとはあなたによって祝福される」と言われたことが実現し始めている結果です。いわば、アブラムの祝福のおこぼれに与ったのです。ですから、ロトはアブラムから離れないでいたら良かったのです。ところが自分も富む者となったとき、彼は自分の力でそうなったかのように思ってしまった。だから、アブラムから離れるように言われたとき、一緒にいさせて欲しいとは言わなかったのでした。では、ロトはどのように決断したでしょうか。10節、11節。

10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。

11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。

ロトがヨルダンの低地を選んだのは。そこが潤っていた、すなわち緑が豊かであり、牧畜に適していたからだと分かります。ネゲブの荒野を通って苦労してきたのですから、乾燥地帯である高原地域を選ぶよりも、低地を選ぶのは当然のことです。豊かな土地を選んだこと自体は罪ではありません。しかし、ロトの判断の基準が問題なのです。10節の最初を見ますと、「ロトは目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと」と書かれています。つまり、ロトは自分の見えるものによって判断したのです。見えない神様を信頼するのではなかったのです。祈って決めたのでもない。彼はこの世のものを基準に判断したのです。

その結果、ロトはどうなったでしょうか。低地に移り住んだ彼はだんだんとソドムの町に近づいて行きます。やがて、後ろの方の記事を読みますと分かりますのは、彼はいつのまにかソドムの町の中に住むようになるのです。ソドムは裕福な町でした。魅力もあったでしょう。しかし、聖書はここでソドムを罪の町として紹介しています。13節。

13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。

主に対して罪を犯すことは決してしてはならないことです。神様の怒りを受けることになる。ノアの洪水の話はアブラムの一族は伝え聞いていたはずです。だから、ソドムの町の罪を見たなら、ロトは近づくのではなく遠ざかるべきです。ところが彼は反対に近づき、中に入っていった。目に見えるところに頼ったとき、彼は間違った方へと進むようになってしまったのでした。

目に見えるもの、すなわちこの世のものに頼ることの愚かさを聖書は教えています。信頼すべき相手は神様のみです。なぜ、この世のものに頼ってはならないのでしょうか。このとき、ロトはもちろん、アブラムでさえ知っていなかったこと、しかし創世記を書いた著者は、ヨセフ時代よりも後ですから、13章の後のことも知っています。ですから、10節で、「主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので」と、こっそりと付け加えています。著者は知っていた。でもロトは知らなかった。人間は将来のことを知ることは出来ない。だから、目に見えるものが将来どうなるかは知り得ないのです。そのような不確かなものに頼ることは自分の将来を危なくするのです。私たちは見えないけれども何よりも確かなお方を信頼することが大切です。

さらに、この世のものは罪を含んでいます。この世にある限りは罪の影響を受けます。だからといって、この世から離れて生きることを神様は命じておりません。クリスチャンはイエス様から、この世に遣わされている存在です。だから罪の影響にさらされることがある。しかし、そのときは罪を避け、悪いことから離れなければなりません。影響を受けても自分は大丈夫、と過信するほど、人間は強くはないのです。私たちはこの世の中に住んでいますが、目は神様に向け、きよいものを求める生き方をする。そうすることによって、世の中の人に聖い生き方を示し、聖なる神様を紹介するものとなるのです。それが証しです。この世にあっても、神様を信頼して生きることが必要なのです。

3.神の計画(13:14〜18)

さて、ロトは間違った基準で判断し、低地を選んでしまった。しかし、アブラムは神様を信頼しました。この信仰に、神様も応えてくださった。それが14節です。

14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。

16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。

17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」

ここで神様はアブラムに、新しい約束、正確には12章の約束がさらに詳しくなっているのですが、その約束を神様は示してくださった。それが信仰への答えです。この13章の約束は三つのことを語っています。

第一に、東西南北、全ての地を与えるということ。ロトは右か左か、その一方を選び取りました。しかし、アブラムは残ったほうではなく、全てを受けることを約束されたのです。「右か左か、それが問題だ」、と人間は考えますが、神様は「右も左も」なのです。アブラムの考え、人間の計画を越えた恵みを神様は用意しておられます。第二に、アブラムの子孫をちりのように多くすること。これは12章の約束をさらに明確にした言葉です。この後を続けて読んで行きますと、神様はアブラムに対して、だんだんと約束を詳しく知らせていきます。それはちょうどアブラムの信仰の成長に併せているようです。神様は私たちの信仰の成長に合わせて教えてくださいます。第三に、アブラムに対して「歩き回りなさい」と命じています。これまでは、あちこちと動くことで、失敗もしました。しかし、牧畜を営むアブラムには移動は必要なことです。神様が命令してくださったことで、動き回ることは問題のタネではなく、祝福を受ける行動となったのです。アブラムが多く歩き回るなら、多くの土地を子孫が受けることとなるということだからです。移動生活が不信仰の故の放浪ではなく、信仰の旅路となったのです。

この神様の約束をいただいたアブラムは、さっそく移動して、そこで「主のために祭壇を築いた」と書かれています。自分のための生き方ではなく、神のため、神様を礼拝するため、それが生活の中心となったのです。なぜ礼拝が生活の中心であるべきなのでしょうか。

神様から祝福されることは素晴らしいことです。しかし、祝福により受け取った「もの」が大切になるなら、人間は目に見えるものに惹かれるようになる、それがロトの生き方でした。礼拝の生活とは、目に見えない神様を第一とし、神様に従う生き方だからです。祝福以上に大切なのは祝福してくださるお方です。

どんな良い土地を受けるよりも、神様が私と共にいてくださることが幸いである、「主はわが嗣業」と詩篇の中でダビデは語っています。嗣業とは新改訳では「譲りの地」と訳され、神様がくださった土地のことです。神様が私の嗣業となってくださる。神様と共に住む。それが祝福の根源です。アブラムが知らなかったことを創世記の著者は知っていましたが、その著者も知らないことを私たちは知らされています。やがて、「主がともにおられる」という名前のお方がこの世に来られ、私たちの救い主となってくださった。だから私たちにとっても「主が私の嗣業」なのです。この救い主によって救っていただいた者は、神様を第一とし、礼拝を生活の中心とする、それが祝福の生き方なのです。

まとめ.

信仰により決断する、それは神様を信頼し、神様の御旨に従う判断をすることです。そのとき、人間の計画や人間の考えを遙かに越えたことを神様はしてくださるのです。思っても見なかった恵みがあるのです。

昨年まで数年間、神様の御旨に従う、そのことを考えている中で、私は、神様の任命に従うようにと示されました。しかし、どこに遣わされるのか、最初は分かりませんでした。でも、神様は思っても見なかったところに導いてくださり、多くの恵みを用意していてくださったのです。まだ、どうなるか分からないことはあります。でも目には見えないけど、何よりも誰よりも確かなお方を信頼し、神を第一として歩み、一つ一つ、信仰により決断して進んでいくことが、神様の御旨なのです。一緒に、信仰によって歩んで行きましょう。

 

(c)千代崎備道

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