トップへ

 

礼拝説教「不信仰と嘘と神の守り」(創世記12:10〜20)
 

序.

序.子供たちを見ていますと、世代の違いということを思い出します。以前、日本では「新人類」という言い方が流行ったことがあります。アメリカでもX世代とかY世代という表現がありまして、考え方や文化まで違うんだそうです。ある時、この世代の違いとして、マニュアルを読むかどうかが違うんだ、ということを聞いたことがあります。テレビでも冷蔵庫でも、新しい機械を買ってきたときに、まずマニュアル、説明書を読んでから使うのが古い世代で、新しい世代の人はマニュアルは読まずにまず使ってみる。世代の違いもありますが、性格の違いかもしれません。みなさんはどちらのタイプでしょうか。

さて、人生というものはマニュアル通りには行かないと言われます。信仰生活もそうです。マニュアルがあって、その通りに生きていけば上手くいく、ということではありません。予想もしないことが起きたりします。聖書を読んだら何でも分かるかと言いますと、聖書というのは何から何まで教えている訳ではありません。どこに行って何をするのか、誰と会って、何を語るのか。細かい指示をいちいち命じてはいません。祈りも同じです。神様の答えが、具体的ではないことが多いようです。しかし、もし何もかも神様が指示されて、私たちはただそれを行うだけでしたら、何も考えないロボットのようになってしまいます。神様は私たちに信仰を求めておられます。神様を信頼して従う。それが神様のお考えなのです。

先週から創世記のアブラハムの人生を学び始めました。アブラハム、最初の名前はアブラムですが、後に神様からアブラハムという新しい名前をいただいた。12章の最初でアブラムは神様から「行け」と命じられましたが、具体的な場所は告げられていませんでした。彼はどこに行けば良いのでしょうか。そして、もう一つ大切なことは、彼の信仰はどのように働いたのか、です。今朝は12章の5節から最期までのところを見て参ります。いつものように三つのポイントに分けてお話いたします。第一に「不信仰のもたらすもの」、第二に「罪のもたらすもの」、そして最期に「恵みのもたらすもの」です。

1.不信仰のもたらすもの(12:1〜13)

先ほど司会者の方に読んでいただいた箇所、10節からのところには、アブラハムの失敗が書かれています。彼は重大な嘘をついてしまった。小さな嘘ならいいかという問題ではありませんが、一体何故彼は嘘をついたのでしょうか。それは一言で言うなら自分の命を守るためでした。では、なぜ自分の命を守る必要があったのか、それは、自分の妻は美しいから...。なかなか日本人は自分の身内をほめるのが苦手なようでして、思っていても言わない。アメリカ人は、思っているかどうかは知りませんが、よく人をほめます。文化の違いですね。アブラムは何と言ったでしょうか。11節。

11 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。

12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。

13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」

自分が殺されないために、それが嘘をついた理由です。・・・そうでしょうか?

まず、そもそも何でエジプトに行ったりしたのでしょうか。それは10節にあるように、彼のいた地域に飢饉があったから、これも自分の命をまもるためです。でも、本当にそれしか方法が無かったのでしょうか。

もう少し前に遡ってみたいと思います。1節でアブラムは神様から「行け」と命じられ、彼は行き先を知らずして出かけていきました。ただ、父親と一緒に出かけたときにはカナンを目指していましたから、アブラムもカナンに向かって歩いて行った。そして、カナンの地にあるシェケムという町のそばに着いたときのこと、それが7節です。

7 そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

アブラムの推測は正しかったようです。神様の示された地は、カナンだったのです。「主がアブラムに現れ」と書かれていますが、実は、神様はこれまで主に声をかけるだけでした。アダムをのぞけば、誰も神様の姿を見ていない。アブラムがどのような姿を見たのかは書かれていませんが、なんらかの方法で神様はご自分を示された。そしてアブラムも祭壇を築いて神様を礼拝しました。ここまでは良かったのです。ところがこの場所にはカナン人と言われる人々が住んでいた。ですから居心地が悪かったのか、アブラムは少し南に移動して、ベテルとアイという二つの町の間に住まいを移しました。ところがそこでとどまらないで、さらに彼は南に移った。それがネゲブです。ネゲブというのはカナンの南部に広がる荒涼とした地域です。そんなところに行ったために飢饉が来たときに逃げざるを得なかった。

神様が「ここだよ」と示してくださったのに、アブラムは少し離れ、もう少し離れ、ついに遠いエジプトまで行ってしまった。それは自分を守るため、という理由をつけていますが、本当の原因はそうではないのです。神様は彼に対して「祝福する」と約束された、それが12章の最初です。始めアブラムは神様の言葉を信じて出発しました。しかし、カナンの地についたときに、神様の約束の言葉を忘れたのです。覚えていたとしても、信頼していなかった。神様が祝福すると言われたのですから、カナンの地にとどまっていたら良かったのです。飢饉が来ても、神様が祝福してくださるなら、ちゃんと守られるはずだ。そう考えなかった、そこにアブラムの不信仰があったのです。神様への信頼が失われたとき、不安が生じます。不安になると疑いが生まれます。周りにいるカナン人やエジプト人が自分に危害を加えるのではないか。神様が守ってくださると信じないときに、自分の力で自分を守ろうとして、そこからアブラムの嘘が生まれたのです。

神様との関係が乱れると、周囲の人との関係も悪くなります。神様を信頼し、一心に御言葉に従うとき、私たちは隣人を愛する者になります。しかし、神様を信頼しないなら、疑心暗鬼になるのです。周囲が敵になってしまいます。アブラムのように不信仰に陥らないためには、どうしたら良いのでしょうか。8節を見ます。

8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。

アブラムは、最初のシェケムからは少し離れてしまいました。しかし、そこで彼は祭壇を築いて、神様を礼拝し、そして「主の御名によって祈った」。場所が変わっても、神様に祈り続けたら良かったのです。ところが、その後は、彼が祈ったかは書かれていません。祭壇も築いていない。場所が離れただけでなく、神様との関係まで離れてしまったのです。それが問題だったのです。確かに、カナンの地といっても広いです。ですから、その中で移動するのは、羊や山羊を連れた遊牧民族にとっては普通の生活です。アブラムが移動し続けても、それが問題なのではなく、祈りを忘れてしまった。飢饉で困ったときにも、まず祈ったら神様が答えてくださるはずです。どうしても分からなかったら、神様と最初に現れてくださったシェケムに戻れば良いのです。信仰の原点に立ち返る。そうすれば大きな失敗はしなくてすんだのです。

私たちも、正しい道からずれてしまうことはあります。小さな失敗なら誰でもあるでしょう。しかし、神様を信頼し、祈り続けるなら、神様が守っていてくださるのです。それを忘れるときに、様々な問題が起きてきます。アブラムは、まさにそのような状態でした。

2.罪のもたらすもの(12:14〜19)

聖書の中に出てくる人物たちは、決して聖人君子ではありません。私たちと同じような人間であり、失敗を犯します。それを見ていますと気がつかされますのは、罪には結果が伴うという、厳粛な事実です。先日ある書物を読んでいましたら、大変興味深い説明をしていました。罪とその結果には二種類のものがある、と言うのです。第一のものは、自然現象のようなタイプで、たとえば石を上に投げたらやがて落ちてくるように、何かの罪を犯したら、自然とその結果が起きる。食べ過ぎたら、おなかを壊す、ということです。神様が与えてくださった体を大切にせず、また必要以上に求めるという貪欲の罪です。その結果の一つが健康を害することです。第二のタイプは、法律的なもので、とくに神様に逆らうようなことをしたら、神様の怒りを受ける。それが罪の結果だということです。もちろん、どちらのタイプの罪であっても、私たちは十字架によって罪を赦していただけます。しかし、罪を悔い改めたら、食べ過ぎてメタボになったおなかは引っ込むか、というとそうではない。赦されたんだからもっと食べていいんだ、それは悔い改めではなく、食い過ぎです。

神様は罪を赦してくださいます。しかし、罪による影響が残ることもあるのです。だから、決して罪を軽く見てはいけないのです。アブラムの罪も、決して小さなものではない。それは、彼の嘘のもたらした影響を考えると分かります。14節。

14 アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。

15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。

16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。

17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。

このときアブラムの妻サライは65歳を越えていたようです。エジプトの王に召し抱えられるとは、本当に美しかったのでしょう。しかし、その結果、神様の怒りを買い、パロの家、これは王宮をさす場合と、エジ王との国全体をさす場合があります。どちらにしても多くの人々が災いを受ける結果となってしまいました。それがアブラムの罪の結果です。神様はアブラムを祝福の基とする、と約束された。ところが、彼が不信仰に陥った結果、祝福の基の反対、災いの元となってしまったのです。

周囲に害を及ぼしただけではありません。アブラム自身、そして、ここには詳しく書かれていないのですが、彼の妻サライはどうだったでしょうか。パロの家に連れていかれたとき、サライはどれほど不安だったでしょうか。そしてアブラムも自分のしたことを後悔したことでしょう。そして、パロから呼び出されたときには、どんな罰を受けるか、恐れていたことでしょう。罪は自分にも周りにも悪い結果をもたらすものです。

罪のもたらす結果は死であると新約聖書は告げています。それは最終的な結果です。特に魂の死がそうです。しかし、そうなるまえに、死の恐れが人間を虜にします。また神との関係、他者との関係が悪くなります。疑いと不安が支配するようになるのです。でも、神様の恵みは、そこで終わらせはしません。不信仰に陥り、神様を離れ、罪を犯したアブラムを、神様は助けてくださいます。

3.恵みのもたらすもの(12:20〜13:1)

神様がどのようにアブラムを守ってくださったでしょうか。まず、神様はアブラムの妻サライを守られました。災いという方法で、パロの妻となることから守ってくださったのです。また、災いが下ったことで、パロたちは、アブラムの神を恐れるようになり、悪いのは嘘をついたアブラムなのですが、彼に危害を加えようとはしなかった。ですから、アブラムも守られたのです。可哀想なのは、エジプトの人たちですが、アブラムが去ったことで、災いも去ったことでしょう。

もう一つ、この箇所を通して気がつきますのは、16節でパロはアブラムにたくさんのものを贈ったと書かれています。これはアブラムがサライの兄だと考えていたので、結納金のようなものです。しかし嘘だったわけですから、結納金も返せ、ついでに慰謝料を払え、と言われても仕方がないのですが、20節。

20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。

パロはアブラムに与えたものは、そのままにしたのです。その結果、アブラムは大変な所有物を得るようになりました。これは何を意味しているかといいますと、旧約時代の人々は神からの祝福は具体的なものと考えていましたので、財産が増えたというのは、祝福のしるしです。12章の最初に神様が約束された祝福が、すでに始まっていることを示しています。そして、13章の1節。

13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。

アブラムはネゲブに戻りました。荒野です。あまり祝福とは思えません。しかし、実は荒野というのは旧約聖書では大切な意味を持っています。荒野に行くことは、時には神からの罰でもあります。しかし、同時に、荒野では神様以外に頼るものがない。神様を信頼する場所なのです。不信仰から始まったアブラムの失敗です。神様は彼を荒野に導き、そこで神様に信頼することを教えてくださったのです。水や草を与えてください、と神様に祈らなければ、多くの羊や牛は死んでしまいます。祈らないではいられないように、神様は導いてくださり、彼の信仰をも守ってくださったのです。

アブラムの罪を考えるなら、神様のなされたことは「甘い」と思われるかもしれません。しかし、神様は「祝福する」と約束された言葉をかならず守られるお方なのです。だから、私たちも救っていただけるのです。創世記が教えているのは、神様とはどんなお方か、です。神様は、罪を犯した人間を救ってくださるおかたです。アブラムは嘘をつきましたが、神様は違います。語られた約束を守るお方です。アブラムだけではありません。私たちも失敗をします。罪を犯してしまいます。それでも神様は御言葉の約束通りに、私たちを救ってくださるのです。

パウロはテモテにこう語っています。

第二テモテ2:13 たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。

私たちは不真実であり不信仰です。しかし神様が真実であるから、救いがあるのです。そして、神様の真実は、どんな状況にあっても変わりません。また私たちが罪を犯してしまっても、なお神様が真実であることは変わらないのです。私たちは、周りの状況に流されてしまいます。アブラムのように飢饉が来たら、どうしようかと悩むのです。また自分の姿を見るなら、こんな罪人を救っていただけるのかと心配になります。でも、神様は真実なのです。そこに救いの根拠があるのです。

まとめ.

さて、結局、アブラムはどこに行ったら良かったのでしょうか。神様が現れたシェケムでしょうか。場所の問題以上に大切なのは、行った場所で神様を信頼したか、です。たとえそれが飢饉の厳しいネゲブの荒野であっても、また罪に満ちたエジプトであって、そこで神様を信頼し、助けを求めるなら、かならず神様は守ってくださるのです。神様はアブラムの失敗をも用いて、祝福と信仰へと導かれるお方です。ですから、私たちは失敗があるかもしれません。神様の御旨から逸れてしまうこともあるでしょう。そのために苦しむことがあったとして、でも真実な神様を信頼していくことを、神様は求めておられるのです。

信仰の生涯にマニュアルはありません。だから、時には失敗もあります。しかし、そのときは神様が教えてくださいます。失敗をも用いて導いてくださるお方を信頼していきましょう。

 

(c)千代崎備道

トップへ

inserted by FC2 system