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礼拝説教「祝福への再出発」(創世記12:1〜4)
 

序.

5月から創世記を学び始めましたが、今日開きます12章からは、いわば「第二部」に入ります。1章から11章は世界の始まりがテーマでしたが、12章からは一つの民族に焦点が絞られます。アブラハムのいう一人の人の子孫であるイスラエルの救い、それが創世記12章から始まり、旧約聖書全体を通してのテーマとなって行く。さらに、それが新約聖書で全ての人の救いへのつながる。その意味で、この12章は、大変大きな出発点となっているのです。聖書全体を貫いている、救いの歴史の、新しい出発なのです。

アブラハムという名前は、最初はアブラムでした。アブラハムの方が有名になりますので、時々アブラムと呼んだりアブラハムと呼んだりします。このアブラハムが75歳のときに、人生の再出発をするのが先ほど読んでいただいた箇所です。

アブラハムは75歳のときに人生の再出発をしました。75歳は若いかどうかは、分かりませんが、大きな節目であったことは確かです。モーセは80歳のときに人生の再出発をしました。何歳であっても、新しい人生を歩むことができる。それは素晴らしい恵みではないでしょうか。今朝は、この12章の出来事を通して、「祝福への再出発」ということを考えてまいります。いつものように三つのことをお話させていただきます。まず、第一に「挫折からの再出発」、第二に「『我が家』からの再出発」、そして、最期に「約束による再出発」という順序で進めてまいります。

1.挫折からの再出発(11:27〜32)

聖書がおとぎ話と違うのは、「昔々、あるところ」ではなく、歴史的な背景をもって書かれていることです。言い換えますと、12章1節のアブラハムは、突然に登場するのではなく、それ以前からの流れの中に生きているということです。そこで、少しだけ遡って、直前の数節、11章の27節から32節までを拾い読みいたします。

27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。

テラという人の息子がアブラムだということです。三人息子の最初に書かれていますが、それは一番重要な人物だからでして、他の箇所の年齢などから、おそらく三男だったと考えられます。長男のハランは先に亡くなり、その息子のロトが跡取りとして名前が出てきています。31節。

31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。

アブラムの父テラは、家族を連れて、ウルというところを出た。なぜ出たのかという理由は書いていませんが、ヨシュア記の中にそのヒントが書かれていて、どうもウルは偶像礼拝の町であったので、その偶像を離れるためであったようです。ただの民族の移動ではなかった、それは次男のナホルは同行しなかったことから分かります。これは信仰による決断だった。アブラムも同じ決断をして、父テラと共にウルを出たのです。ウルは現在のイラクの南部にあった町だと推測されています。そこからカナン、現在のイスラエルのあたりを目指して、彼らは出発したのですが、途中のハラン、これは長男の名前と同じで紛らわしいのですが(本当は少し発音が違います)、現在のシリアの北部にあったと考えられていますが、そのハランまで来たときに、そこでとどまり、住み着いたと書かれています。つまり、目的地まで行かず、半ばで止まってしまったのです。偶像から離れるという本来の目的も中途半端に終わってしまった。そのアブラムに対して、神様はもう一度、出発するようにと命じられたのが、12章の1節です。ですから、これは信仰の再出発なのです。

アブラムという一人の人の再出発であると同時に、神様というお方が再出発をさせてくださるお方だということです。人生には様々な挫折があります。勉強や恋愛、仕事、人間関係、多くの人が一度は挫折を経験するのではないでしょうか。あるいは、挫折とまでは行かないでも、行き詰まりを感じることがあります。それとも、途中で停まってしまい、滞っていることがないでしょうか。神様は挫折した人を見捨てたりはしないお方です。そこから立ち上がらせてくださるのです。

そして、この挫折は、クリスチャンになってからも味わうことがあります。特に信仰の挫折。信仰の成長が止まってしまうことがあります。クリスチャンとして成長し続ける、それが永遠の命を内側にもっていることの表れです。それなのに、どうも信仰がパッとしない、喜びや感謝があまり出てこない、つぶやきばかり出てくる。それは信仰が止まっている状態です。多くの場合、その原因は自分の内側にあります。何かの罪か不従順があるときに、成長は止まります。そうなると、自分の中の問題を認めたくないので、周りの人を攻撃します。誰かを裁くことで自分の問題から目を背ける。ですから他の人のことを悪く思うとき、それは赤信号です。赤信号とは信仰が止まっている状態です。止まると、後退し始めます。そのまま放っておくと、大変なことになります。

しかし、どれほどダメになったとしても、神様は見捨てるお方ではありません。悔い改めて神様に立ち返るなら、立ち上がらせてくださる。そして再び成長させてくださるのです。失敗や挫折が悪いのではありません。今、夏の甲子園大会が始まっています。お好きな方もおられるでしょう。ある解説者の言葉が新聞に載っていました。甲子園の良いところ、それは「ひとつは夢を持てること、もう一つはきちんと挫折を経験できること」。味わい深い言葉です。確かに、優勝する一校をのぞけば、全てのチームが敗退する。また舞台に立てなかった者もたくさんいます。たとえ夢破れ、挫折を味わっても、そこから立ち上がるなら成長するのです。

アブラムの家族は、一度、立ち止まり、目標を失ってしまいました。しかし神様がその挫折から立ち上がらせてくださったのです。しかし、再出発のためには、ひとつ、しなければならないことがあります。

2.「我が家」からの再出発(12:1)

32節の最期に父であるテラが亡くなったと書かれていますが、これはアブラムの再出発の前ではありません。年齢から計算しますと、まだテラが生きているときにアブラムは立ち上がっています。ですから彼は父の家から出なければなりませんでした。彼らにとって生まれ故郷はウルですが、ハランは第二の故郷というべき場所です。そこを、離れなければならない。

新改訳聖書では1節に、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て」、と書かれていますが、原文を直訳しますと「あなたの国、あなたの親族、あなたの父の家」となっています。あなたの国、慣れ親しんだ故郷を離れなければなりません。あなたの親族、親しい人々から離れるのです。そして「父の家」、我が家です。いつまでもそこにいたい、その我が家を離れる。この表現は別れることの困難さを、三重の言い方で示しているのものです。アブラムは、兄弟を離れ、父母、お母さんの名前は出てこないので詳しいことは分かりませんが、家族を離れ、友人とも別れて、出ていったのです。

我が家の持つ、もう一つの意味は、それは一番慣れている場所だということです。自分の家です。自分の思い通りになるところです。神様に従って再出発をするためには、自分の思い通り、という生き方から離れなければならない。人間は誰でも、自分の慣れているところから離れたくありません。よく分かっている状況なら、多少の事はあっても、どうにか対処できるからです。まったく新しい場所、それは今までのやり方が通じない、自分ではコントロールできなくなる。だから恐れるのです。その自分の思い通り、自分でコントロールしたい、という「自分」から離れなければ、挫折からも立ち上がれないのです。

個人個人の信仰も、また教会全体も、成長が止まってしまうことがあります。止まると、だんだんと信仰が形だけになってしまい、やがて縮こまるようになる。今、日本の教会がそうなりつつあります。大きな危機感が抱かれています。教会も、そして一人一人の信仰生活が形骸化してしまわないためにも、再出発が必要です。しかし、それを難しくさせるものがあるのです。それは他でもない、自分自身です。

教会は神の家族です。それは素晴らしい真理です。愛の交わりがあります。子供が生まれ、成長しています。本当に感謝なことです。しかし、気をつけませんと、「家族」ということのみに目が向けられてしまう。そして「私たちだけ良ければ」という姿勢になる。そうしますと、人間の集まりとなるのです。教会の親密な交わりが、逆に新しく来た人を阻害することもあるのです。あまりにもみんなが仲良くしているため、それは良いことなのですが、外から来た人が加わりにくくなってはいけません。教会は家族です。しかし、それは「神の家族」、「神の家」です。一家の主人は、神様なのです。ですから神様の御言葉に従い、立ち上がることが出来るのです。ある家族は、「教会に行こう」とお父さんの号令一下、クリスチャンホームになった。そのときに、「いや、日曜の朝は見たいテレビがあるんだ」となったら、どうでしょうか。もちろん「あなたもあなたの家族も救われます」との御言葉がありますから、いつかは神様の恵みで、全員が救われる。でも祝福はしばらく滞ってしまいます。神の家である教会も、神様の一声に従うとき、豊かな祝福をいただくのではないでしょうか。

個人も同じです。自分の信仰生活で、自分が主人となってしまう。すると自分の思い通りが良い、そうなるとなかなか変化することが出来なくなります。何も変わらない、それは成長も止まってしまう。しかし、自分ではなくキリストが私の人生の主人である、その御言葉に聞き従うなら、御言葉が私たちの信仰に命を与え、立ち上がる力を与えてくださるのです。

3.約束による再出発(12:1〜3)

さて、アブラム、後のアブラハムは、神様の命令に従い、故郷であるハランを出発しました。このことをヘブル人への手紙は、有名な言葉で語っています。「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」。行き先を知らないで出ていく、とは、普通、無謀と言います。これからどうなるかも分からないのに、わざわざ再出発することはないじゃないか。現状維持の方が良いのではないか。しかし、アブラハムは出ていった。なぜ、そんなことが出来たのでしょうか。不安ではなかったのでしょうか。もちろん、不安はあったでしょう。しかし、彼は御言葉に従ったのです。神様を信頼し、そのお言葉を信じたのです。信仰は聞くことによる、とあるように、「信仰によってアブラハムは」という「信仰」は、御言葉により生まれたのです。そして、神様の御言葉は約束の言葉です。12章2節。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

最期の「あなたの名は祝福となる」と訳されているのは、口語訳聖書では「あなたは祝福の基となるであろう」と訳されています。原文では、「あなたは祝福となれ」という言葉です。神様は「光あれ」と命じられたら、その通りにならせるお方です。アブラムは「祝福となれ」と言われ、そうなるんだと信じたから出発したのです。神様の御言葉の命令に対する服従であり、また御言葉の約束に対する信仰による再出発なのです。

この約束はアブラムだけに与えられたのではありません。また彼の子孫であるイスラエルだけの祝福ではありません。確かに、イスラエルの民は、自分たちが選ばれた民であるということを勘違いして、エリート意識を持つようになり、他国人を異邦人と呼んで蔑み、祝福を独り占めしようとしました。しかし、アブラハムの子孫であるイエス様によって、世界中の人が救いの恵みに与るようになったのです。3節の「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という約束はキリストにあって私たちにも及んでいるのです。神様が私たちに再出発を命じるのは、そこに祝福の約束があるからなのです。

また、アブラハムではなく、私たちに告げられた言葉があります。「全世界に出ていって、全ての国民を弟子とせよ」との大宣教命令、これは命令であると同時に、約束です。この御言葉を信じて、文字通り世界中に福音が伝えられて行きました。今も、この御言葉は活きています。私たちは祝福や救いを自分だけのものにするのではなく、他の人々に伝えるために召されているのです。神様がそうさせてくださる、用いてくださる。それが約束です。私の信仰はダメだ、と落ち込んだり、教会は問題があるからいけない、と裁くのではなく、約束を信じて、信仰により立ち上がることを、神様は命じもし、約束していてくださるのです。

まとめ.

「全世界に出ていって」と御言葉があります。もちろん、全ての人が文字通り他の国に行くことはできません。とどまって隣人や家族に福音を伝えることも大切な宣教の働きです。また具体的に宣教師となって外国に行かれる方は、教会の、また教団の代表として行かれる、その方をサポートするのも宣教の一端です。どこに行くか、それは神様が示される地です。しかし、場所の問題ではない、自分の思い通りにしていたい、という心の中から出ていくのです。そして神様が約束された祝福の生涯へと向かう人生を、神様は命じておられるのです。あなたを祝福し、あなたを通して周りの人を祝福するとの約束の御言葉を信じ、信仰を持って立ち上がろうではありませんか。

 

(c)千代崎備道

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