トップへ

 

礼拝説教「混乱の世界」創世記11:1〜9
 

序.

序.私は英語が大の苦手でして、アメリカに10年行っていたので信用してもらえないのですが、大学の専門で数学を選んだのも英語の点数が悪くても合格できると思ったからでして。イヤだイヤだと思っていますと、神様はそのようになさるようで、とうとう留学することになり、案の定、苦労しました。ですから創世記の11章の事件が無かったら、言葉が乱されていなくて、世界中が一つの言葉だったら、どんなにラクだったろうか、と何度も思ったことです。

私だけのことではありません。言葉が通じないために苦労した人も少なくないでしょうし、無くて良い争いも起こったことでしょう。何で、神様は言葉を乱されたりしたのでしょうか。創世記の11章は、ただ、少し変わった事件があったことを報告するのが目的ではありません。やはり、ここにも神様の深いお考えが隠されているのです。今朝は「混乱の世界」と題して説教を取り次がせていただきます。いつものように三つのポイントで。第一に「混乱の原因」。第二に「混乱の意味」、そして最後に「混乱の中の計画」、ということをお話いたします。

1.混乱の原因

3節を見ますと、それまで石を拾って来て家や城壁を築いていたのが、レンガが用いられ、それも火で焼くことで強固なレンガを作ることができるようになったことが書かれています。瀝青は、コールタールのようなものと考えられています。技術の進歩があったのです。それを用いて、人々が立てたのが大きな町と高い塔でした。それも天まで届くような塔です。どれくらいの高さかは書いてありません。それを見ていた神様は、工事をやめさせるために言葉を乱したのです。

高い塔を作ることがいけなかったのでしょうか。最近でも中近東では高さ1キロメートルというビルが計画されているそうですが、それも間違っているのでしょうか。工事自体が悪いのではなく、神様は、人間の動機を問題となさいます。人々の動機が4節です。そこには神様の御心にそぐわない、二つの罪が潜んでいます。第一に「天に届く塔を建て、名をあげよう」、それは高慢の罪です。天に届くとは、神の世界にまで行くことができる、人間が神に等しくなろうとすることです。それに対して神様は天から「降りてこられた」と5節と7節に繰り返されている。人間がどれほど高い塔を作っても、神様から見たら低いところなのです。それなのに人間は自分と神を等しいと考えるのです。愚かであり高慢です。ガガーリンが初めて宇宙飛行をしたときも、神はいなかったと言ったそうです。地上からわずかな高さにいっただけで、全宇宙が人間のものとなったかのように思い、神を否定するのです。第二の罪は「全地に散らされないように」ということです。洪水の後で神様がノアの家族を祝福し、「産めよ、増えよ、地に満てよ」と言われました。全世界に広まっていくようにとの命令であり、祝福の言葉です。その御言葉に対する反逆なのです。御言葉に従わずに、神と等しくなろうとする。それは最初の人間アダムとエバが犯した罪そのものです。だから神の裁きを受けるのが当然だったのです。しかし神様はノアの時のように洪水を起こすのではなく、その代わりに言葉を乱されたのでした。

もう一つ、この事件の背景を考えてみることが出来ます。それは少し戻って、10章の8節から10節です。

8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。9 彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。10 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。

ノアの息子の一人ハムの子孫からクシュという民族が生まれ、その子孫がニムロデでした。彼は権力者となり、バベルの町を作ったとされています。ですから、塔の工事にも関わっていた可能性が高いのです。どのような権力者だったか、「力ある猟師」と書かれています。ただの猟師だったら権力者とは言いません。彼は人間を猟のように追い回し、捕まえ、我がものとした、そのような権力者だったのです。彼が強くなれたのは「主のおかげ」と書かれています。それなのに、ニムロデは神様に感謝する生き方ではなく、その力を、悪い用い方をして、権力者となり人々を支配したのです。そのようにして出来た町がバベルです。どんな町であったのか想像できます。

ニムロデも、また11章の人々も、共通しているのは、主のおかげであったことを忘れ、神様が祝福してくださったことを忘れている姿です。神様は私たちに様々な恵みを与えてくださいます。それを忘れ、あるいは神様からの恵みと考えないで自分の力を誇る、そのような生き方は、やがて神様の御心に逆らう人生を歩むようになるのです。神様がくださった祝福に正しい応答をして、感謝を捧げ、主にお仕えし、人々を愛する、そのような生き方をすることが、神様の御心なのです。

2.混乱の意味

11章でバベルと書かれている言葉は、聖書の中に200回以上出てきますが、創世記以外ではバベルではなくバビロンと訳されています。バベルとバビロンは同じ言葉なのです。そしてバビロンと言えば、それはバビロン帝国のことですが、象徴的に罪の世界を表すものとして使われています。黙示録などで、世界の終わりに滅ぼされるべき存在、それがバビロン、すなわちバベルなのです。バビロンの王で有名なのはナブカデネザルですが、ダニエル書を読みますと、彼が高慢になって神様から審きを受ける場面が出てきます。バビロンとは、神様に逆らう国であり、神と等しくなろうとする高慢な存在を意味するのです。

そのような罪による大帝国は、同時に弱者を苦しめる存在です。周りの国々を征服し、人々を奴隷とします。王を頂点とする自己中心と弱肉強食の世界、それがバビロンであり、自己中心に満ちている点では、今の世界も同じではないでしょうか。この自己中心、聖書はそれを罪の大元だと教えていますが、人間の中に自己中心があるとき、まず人間は神様に逆らうものとなり、神様との関係が壊れます。そうすると、次に人間同士の関係も崩れてきます。人間は「神のかたち」に作られたと創世記は告げています。ですから神中心ではなく自己中心に生きるなら、人間関係が壊れてしまうのです。その壊れた関係、それはコミュニケーションの破壊をもたらします。いくら言葉で語っても、お互いが相手を信用出来ないのであれば、心は通じなくなります。相手は嘘をついているのではないか、そう思ったら、言葉は意味をなさなくなるのです。

人間の罪を神様が裁いた、だから言葉が混乱した。それは確かですが、それと同時に、人間の罪そのものが言葉の混乱の原因なのです。人間関係の混乱が具体化したのが言葉の混乱なのだということが出来るのです。罪の世界に生きるなら、同じ日本語を話していてもコミュニケーションはうまくいきません。しかし愛の世界に生きるなら、言葉は違っていても心が通じるのではないでしょうか。国際結婚がまさにその実例です。共通してできるのは片言でも愛し合う関係が出来るのです。その反対の例もたくさんあります。同じ国で生まれ、同じ言葉を話しながらも、騙しあい、相手を支配しようと戦う。バベルの混乱は、言葉の混乱であり、罪による人間関係の破壊がもたらしたものだったのです。

そのような混乱した社会で、弱い者が苦しめられ、強制労働のようなことが行われていたとするなら、神様が言葉を乱されたのは、審きであるとともに、工事をやめさせ、弱者を解放するための救いでもあったのではないでしょうか。混乱の原因は、神ではなく人間の罪なのです。

3.混乱の中の計画

人間は神様の命令に逆らって、バベルに集まってきたのですが、神様が言葉を乱された結果、彼らは地の全面に散らされて行きました。それによって諸民族が移動をするようになり、ノアの息子セムの子孫であったテラというひとが移住したことが11章の最後に書かれています。31節。

31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。

テラは途中のハランという場所で止まったのですが、その息子であったアブラムは、神様の言葉をいただいて、さらに先に進んでいき、そして神様から祝福の契約をいただいた、それがアブラム、後のアブラハムです。そこから神の民の歴史が始まるのです。神様が11章でされたことは、人間に混乱を与えたのではなく、そのことを用いて祝福の計画をスタートされたのです。神様の計画は混乱ではなく祝福を与えるものです。預言者エレミヤを通して神様が語られたのは、神様の与える計画は、「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」、ということです。神様は混乱で終わりにされるお方ではないのです。

でも、結果としてはたくさんの言葉が出来てしまったではないか、と心配される方もおられるでしょう。神様の計画はアブラハムで終わっているのではありません。混乱の言葉と混乱した人間関係、それをもたらした罪から人間を救うために、神様はアブラハムの子孫として、「まことのことば」であるお方を遣わされた、それがイエス・キリストです。イエス様を信じるとき、まず神様との正しい関係が結ばれます。神様との関係が修復するとき、人間関係も正されていくのです。それだけではありません。イエス様は十字架で罪の贖いをしてくださり、復活され、新しい命、新しい生き方を与えてくださり、それから、天に昇られました。そして、聖霊が下られた。そのとき、何が起こったでしょうか。ペンテコステの出来事を思い出すなら、そのとき、弟子たちは様々な国の言葉で語り始めた、と書かれています。それは自由に外国語が話せるようになった、ということよりもむしろ、全ての国の人々が救いの言葉を聞くことが出来るようになることを意味しています。今でも世界中の人々に福音を伝えるために多くの宣教師が外国に渡り、また多くの翻訳聖書が作られています。神様が言葉を乱されたのなら、その全ての言葉の人々に福音を伝えるようにされたのも神様なのです。罪の結果として乱れた世界を救うために、神様は救いの計画をも立ててくださっておられたのです。

まとめ.

バベルの塔は、遠い昔のお話ではありません。私たちの心も、周りとの関係も、乱れてしまうことがあります。その原因は、自己中心であり高慢であり、神様に従わない生き方です。しかし神様はその罪を赦し、混乱を救いに変えてくださるお方なのです。どうしたら、その救いをいただくことが出来るでしょうか。それは生ける神のことばである、イエス・キリストを信じることです。神の御言葉を土台として生きることです。今日は聖餐式が行われます。私たちの信仰の土台である、イエス様につながっているなら、どれほど世界が混乱しても、救いがあるのです。キリストを信じて行きましょう。

 

(c)千代崎備道

トップへ

inserted by FC2 system