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礼拝説教「祝福vs呪い」創世記9:9〜13(9章)
 

序.

洪水の後に神様は、二度と同じ洪水で世界を滅ぼすことはしないとノアに約束され、虹がそのしるしであると言われました。

虹というのは太陽光線が空中の水蒸気で屈折して、ということは科学的に正しいのですが、その虹が何を意味するか、いえ、この記事が聖書に書かれているのはなぜなのか。今日は、この9章全体を通して、虹の契約を通して示されている神様のご計画について考えてまいります。

いつものように、三つのことをお話します。第一に「神による祝福」、第二に「人間による呪い」、そして最後に「契約による救い」という順序でお話してまいります。

1.神による祝福(9:1、7)

創世記から連続して説教を取り次がせていただいているのですが、何人ものかたが質問を寄せてくださいます。それは大変うれしいことでして、良く聴いていてくださるのだと感謝しております。礼拝の時間の中ではすべてのことをお話することはできませんので、またそのような質問に、その方だけでなく皆さんにお答えするチャンスを持つことができたらと考えております。

多くの方が共通して抱かれる質問というのもあります。代表的なものは、なぜ神様はアベルの供え物は受け入れられたのに、カインの供え物には目を留められなかったのか。これについては三週間前にお話させていただきましたが、今のところ、すべての人が認める回答はまだありません。いくつかの可能性が言われています。アベルは良い物をささげたが、カインは悪いものを捧げた。しかし、聖書はカインの捧げものに関しては多くを語っていません。動物の犠牲は尊いが穀物は良くない、それは後に農作物の捧げものについて律法が定められていますから、植物はダメということではありません。ユダヤ教の学者たちが述べていますのは、アダムが罪を犯したときに、神様の裁きの言葉が下されましたが、そのとき、アダムの故に地が呪われたと書かれています。つまり神様が呪われたから、地からの産物は喜ばれなかったのだと。納得できるかは別として、確かに創世記自身が語っていることに合っています。しかし、それが本当だとしても、その呪いは永遠に続くものではありません。

洪水の後に神様が言われた言葉を見て見ましょう。9章の1節。

それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

さらに7節を見ますと「生めよ、増えよ。地に広がり、地に増えよ」と神様が祝福の言葉を語っておられます。この言葉は一章で神様が言われた言葉、造られた全てのものを神様が祝福されたと同じものです。ですから、この祝福は人間だけ、ノアの家族だけに与えられたものではありません。もし、祝福の言葉通りに、彼らだけが救われたのなら、動物は二匹づつしかいないので、人間だけが多くなり、困ったことになってしまいます。ですから、この約束の言葉は、ノアを代表とする、すべての生き物に対して語られたと言えるのです。それによって何が起こったのか。神様が世界を洪水で滅ぼされ、罪深い人々が洪水で滅び、もう一度祝福が与えられ、それによって、地上への呪いが、いわばリセットされたのです。

この洪水は罪に対する滅びであったのは間違いありません。しかし、神様の目的は滅ぼすことではなく、罪の中に苦しんでいたノアたちと、そして世界を救うことでした。そして、祝福を与えることなのです。そこには、多くのものが滅ぼされるという痛みを伴っていますが、罪の問題を解決し、祝福をもたらす結果となったのです。

私たちの場合はどうでしょうか。罪に対する審きは、すでにキリストが十字架でその身に受けてくださいました。しかし、罪の結ぶ実により、その影響によって、私たちは様々な苦しみを味わいます。自分の罪の場合も、他の人の罪、社会全体の悪のために痛みを受けることがある。それが現実です。しかし、神様はその悩み苦しみを通り抜けさせ、祝福を与えようとしておられるのです。ノアたちに箱船が与えられたように、私たちにも苦難から逃れる道が用意されている、とパウロは語っています。しかし逃げたら大丈夫ではない。逃れることが目的ではなく、神様の目的は祝福なのです。

では、何故なかなか祝福に至らないと感じることがあるのでしょうか。

2.人間による呪い(9:20〜27)

ここまでは虹の契約の前を見ましたが、その後の出来事を見てまいりましょう。20節です。

20 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。
21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

何故、ここまで酔っぱらったのか、理由は書いてありませんが、最初にノアが紹介されたときのような「全き正しい人」の姿はどこかに行ってしまったかのようです。罪に満ちた世界にあって、神と共に歩んだ正しい人ノア、それが今や、泥酔して無様な姿となっています。まるで、洪水前の人々の姿を連想させます。そして、そのような状態はノアだけではありませんでした。22節。

22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
23 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。
24 ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、 25 言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」

末息子ハムのしたことが何故悪かったか、それは二人の兄が父の恥ずかしい姿を見ない、父への愛と敬いの姿勢を貫いたのに対し、弟は兄弟に告げた、すなわち、父の恥を広めた。そこには父への畏敬の思いが欠如していたのであり、それは、父の上におられる神様への畏敬の念が無いことを示します。

ハムに言わせるなら、本当のことを言っただけだ、ということですが、でも、そこには愛は無いのです。うわさ、と言うのはたいてい人の悪口が多いようです。本当のことのばあいもあるし、本当ではないのに、それを確認もせずに良い広める。それは善意ではなく悪意が根底にあるのです。人の良いことを言い広めるのは、良いですが、悪口になるようなことは口を慎む、特に教会の中ではそうあるべきです。うわさ話は交わりを損ねるものなのです。

さて、ある学者たちは、ハムの犯した罪について、一つの説を唱えています。それは、父の裸を見た、というのは、ただ目で見ただけでなく、よく見た、あるいは手を出した、すなわち、そこに性的な意味が含まれていたと解釈するのです。後に滅ぼされたソドムとゴモラは罪に満ちた町でしたが、特に男色の習慣が強かったことが示されています。ですから洪水で滅ぼされた世界にも同じ罪があり、ハムはその罪の影響を受けていたのだ、それがその学者たちの説です。それが理由であるかは、まだ分からない部分がありますが、そこには、私たちが思う以上に大きな罪があった、だからノアはハムに対する怒りをもった、そして彼と彼の子孫を呪った、それが25節です。

でも、たとえ罪に対する処罰だとしても、本当にノアのしたことは良かったのでしょうか。そもそも、ノア自身の失敗が原因です。彼は自分の罪を神様の前に悔い改めるのではなく、まず人を裁いた。そして呪った。そこにノアの状態が現れています。神様によって救っていただいた、その恵みの中に生きるのではなく、自分のやりたいこと、思い通りに生きて失敗し、その失敗に目を向ける代わりに息子に罰を与える。まるで責任をなすりつけたアダムのようです。さらに悪いのは、せっかく神様が祝福してくださった、その祝福を受けた三人の息子の一人に呪いをかけた、ということです。

呪いの無い世界に再び呪いをもたらした。それはノアとハムの、すなわち人間の罪によるのです。そもそも地に呪いがもたらされたのも、神様が呪ったというよりも、アダムの故に呪われた、と書かれています。祝福の世界に呪いをもちこむのは人間自身の罪なのです。

私たちのために神様は豊かな豊かな祝福を与えようと準備されている、それなのに私たちの側で他者を呪うようなまねをしているなら、祝福がなかなか受けられなくなるのではないでしょうか。別に呪ってなんか無い、そう思います。でも、誰かを憎んだり嫌ったり、差別し、レッテルを貼り、愛し合う関係を損ねていないでしょうか。お互いに対する愛と敬いの思いが働いているでしょうか。祝福を妨げるものがあるなら、祝福は滞ってしまいます。イエス様が、もし兄弟に対して怒りや憎しみ、許せない思いがあるなら、和解してから祈れ、と教えられました。それが祈りを妨げ、神様からの恵みを遮ってしまうからです。

神様の祝福を、人間の呪いが妨げる。では、もう祝福は人間に及ばないのでしょうか。そうではない、それが虹の契約です。

3.契約による救い(9:9、12)

罪の世界を滅ぼすために、神様は洪水を用いた。しかし、二度と洪水による審きはしない、その約束を忘れることのないように、虹の契約が結ばれたのです。このノアに対する契約は、とても大切な意義があります。それは神様が人間と結んだ、初めての契約だからです。この後、神様はアブラハムと契約を結ばれ、シナイ山ではイスラエルの民と契約を結ばれ、ダビデと契約を結ばれます。

実は、聖書全体が契約です。旧約新約の「約」は契約の意味です。それは聖書における救いは契約という形で示されている。その救いの契約の原型がノア契約なのです。契約とは何か。それは、契約した者が責任を持ってそれを必ず守り実行する、ということです。決して口約束ではない、という意味です。人間と人間の間の契約は両者が責任を問われます。しかし、救いの契約は神様が一方的に与えてくださった、恵みの契約です。ですから、神様自らが責任をもって確実に救ってくださる、その約束が、救いの契約、旧約であり新約なのです。

確かに人間によって呪いがもたらされたのかもしれない、しかし、神様はその前に契約を結ばれた。だから、もう祝福は取りやめ、ではないのです。神様は必ずノアの子孫を祝福される。事実、ノアの息子たちの系図が後に続いているのは、産めよ増えよ、という祝福の一つの結果です。人間の呪いと、神様の祝福、どちらが強いでしょう。神様が強いに決まっています。たとえ一時的に呪いが優勢であるように見えても、かならず神様は祝福に変えてくださる。なぜでしょう。契約をされたお方だからです。責任を持って必ず実行するというお方が、約束したからには、必ず祝福はある。それを信仰を持って待ち望みましょう。では、どうしたら信仰により待ち望めるか。そのカギが御言葉です。

私たちの教会は、そしてホーリネス教団は、御言葉信仰を一つの柱としています。御言葉信仰とは、御言葉をお守りのようにするのではなく、神の言葉として信じる信仰であり、御言葉の約束に立つことです。救いに与ったとき、救いの御言葉をいただきます。忘れてしまうこともあるのですが、後から違った御言葉でも良いです。かならず救いの御言葉と言える聖書の言葉を、少なくとも一つ、覚えてください。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

これが神様の約束です。十字架により結ばれた契約です。ですから、救われた私たちがどれほど失敗をしてしまっても、なお神様は罪を赦し、悪をきよめてくださるのです。罪の問題で悩み苦しむとき、ぜひ神様の約束の言葉を思い出し、その約束と、契約をされた真実な神様に信頼する、それが御言葉信仰です。自分の姿に基づく救いは簡単に倒れます。でも神様の御言葉に堅く立つ信仰は揺るがないのです。

まとめ.

ノアは無様な失敗をし、さらに息子を呪うという失敗を重ねました。しかし、神様は彼の罪を上回る祝福を約束された、その契約の言葉をノアは忘れなかった、だから聖書に書き残されたのです。そして神様の祝福、これについては、アブラハム以降にだんだんと明らかにされていきます。神の祝福と人間の呪い、どちらが勝つでしょうか。答えは明らかなはずです。神様の祝福は罪の呪いをうち破るものではありませんか。救いの契約である、御言葉の約束を信じ、祝福を受け継ぐものとなりましょう。

 

(c)千代崎備道

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