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礼拝説教「ノアの箱船」創世記6:9〜14(6〜8章)
 

序.

旧約聖書は様々な形で新約聖書とつながっています。ノアの箱舟もその一つで、新約の救いの原型ということができます。それは、滅びからの救いということです。神様は罪に満ちた世界に裁きを下され、滅ぼされる、しかし、その滅びから私たちを救ってくださる。その救いがノアの方舟の中にも表わされているのです。ただ、旧約時代の救いはどれも未完成です。神様は救いの計画を徐々に示しておられます。ノアの箱舟の場合は、十字架の贖いということについては描かれていません。では、ノアの方舟は何を私たちに告げようとして書かれているのでしょうか。

神様は洪水によって地上のすべての生き物を滅ぼそうとされました。しかし、ノアの家族だけを救われた。なぜノアが救われたのか。それはノアが正しい人だからだと書かれています。私たちが救われるためには、私たちもノアのように正しい人にならなければ救われないのか、自分のようなものが救われるだろうか。そのように心配される方もおられるかもしれません。今日はノアという人に焦点を当てて、この箱舟による救いについて考えていきます。

いつものようにお話を三つのポイントに分けてまいります。第一に「全き人ノア」、第二に「服従の人ノア」、そして最後に「任せる人ノア」という順序でお話いたします。

1.全き人ノア

先ほど9節から読んでいただきましたが、5節から8節には、神様が世界を滅ぼそうとされたことが書かれていて、その最後、8節に「しかし、ノアは主の心にかなっていた」と書かれています。すなわち、ノアの姿勢の中に、神様の御心に適う生き方が描かれているということです。そのことを9節から見てまいります。

6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

まず、ノアは正しい人であった、と書かれ、それから全き人だと書かれています。この二つは原文ではワンセットで表現されていて、「正しく、全き人」と訳すことが出来ます。ますます、自分にはノアのようになれない、と思ってしまいます。では、どのような意味で「正しく、全き人」なのでしょうか。まず第一に「その時代にあっても」、すなわち周囲がどれほど罪に満ちた世界であっても、なお正しく生きる、ということです。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉がはやったことがありますが、今でも日本人の中にはそのような傾向があります。他の人がしているんだから、という生き方ではなく、神様の目の前に生きる姿勢を忘れない。それがノアの生き方です。

それでは「全き人」とは何でしょうか。洪水の後のノアの姿を見るならば、彼も失敗のある人間だったことが分かります。完全無欠な人ではありません。ではなぜ「全き人」と呼ばれたのでしょうか。「全き」と訳されているヘブル語は「ターミーム」という言葉なのですが、これは「成熟している」と訳すことも出来る言葉です。ノアという人は、成熟した、すなわち人間としてこうあるべき姿だという意味です。この、ノアが全き人であるということの反対の姿が、11節、12節です。

6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

当時の世界がどのような姿であったのか、一言でいうならば「堕落していた」ということです。その一つの現れが「暴虐で満ちていた」。残虐な行い、それはまさに人としてあるべき姿から離れてしまっていることです。最後の「その道を乱していた」という言葉も、原文では「堕落する」という意味の動詞が使われています。大変、興味深いのは、その次の13節の最後で、神様が「彼らを地とともに滅ぼそう」と言っておられる、その「滅ぼそう」という言葉も実は同じ、堕落している、という表現なのです。つまり人間が堕落して、滅びに向かう生き方をしている、だから神様も彼らを滅びの中に落としてしまう、ということです。しかしノアは滅びに向かう生き方を選ばなかったのです。神様に向かう生き方を選び取って生きていたのです。

さて、この「全き人」という言葉は、私たちにとっても大切なことです。ホーリネス信仰の源流としてイギリスの宗教改革者ジョン・ウェスレーがおりますが、このウェスレーが「きよめ」ということを人々に教えたときに、「キリスト者の完全」という言葉を使いましたところ、批判を浴びたことがありました。それは、人間が完全になれるはずがない、という反対論です。しかし、これは「完全」という言葉だけを見て批判したのであって、ウェスレーが教えようとした「キリスト者の完全」ということを理解していなかったためです。ではキリスト者の完全とは何か、それが実は先ほど出てきた「ターミーム」というヘブル語、つまり「成熟した」ということなのです。あるいはキリスト者としてあるべき姿は何か。このことに関してはいつかまた詳しいことを話すつもりですので、今日は一言だけ。私たちはイエス様によって救っていただいた、だからこれからは、自分の好き勝手に生きるのではなく、イエス様を主として生きる、それこそクリスチャンとしてのあるべき姿です。それはキリストに従うということでもあり、また罪から救われたのだから、神様の嫌われる罪から離れる、きよさを求めることでもあります。それがホーリネスということなのです。

話がわき道に逸れてしまいましたが、でも大切な脇道です。ノアが全き人であったとは、ウェスレーの説明の言葉を使うなら、天使のような完全ではない、それは人間には到達できないものです。しかし、人間として、いえ、信仰者としてあるべき姿であった、ということなのです。そのことを示しているもう一つの表現、それが9節の最後、「ノアは神とともに歩んだ」という言葉です。「歩んだ」という動詞は、「歩き回った」という言い方をしています。どこに行くにも、いつも神様と共に生きる生き方です。神様よりも前に進み出て、自分の生きたいように生きる自己中心でもありません。また、ただ神様の後についていくだけの、何も考えないロボットのような姿でもない。ましてや、神様から離れてしまうのでもない。神様と共にいる、それがノアの生き方でした。

結婚して最初の頃は、夫婦で一緒に歩くとき、どちらかが早すぎたり、遅かったりで、歩調が合わないことがあります。でもベテランの夫婦になりますと、お互いのリズムが分かり、一緒に歩くことができるようになります。私たちと、神様との歩調はどうでしょうか。つい、自分勝手に歩いてしまったり、反対に神様の進もうとされる方向について行かなかったりしないでしょうか。私の場合は、たぶん、神様のほうがずいぶんと忍耐して、一緒に歩んでいてくださるような気がします。ノアのように主の御心に適う生き方をしたいと願います。

2.服従の人ノア

二番目に見ていきたいのは、ノアは全き人であるだけでなく、神に従う人だったということです。たとえ完全無欠な人間であったとしても、神様に従わないのなら、無意味です。むしろ自分を誇る存在となり、神に逆らう存在となってしまいます。一説によると、サタンというのは以前は天使長であったのに、神に従うのではなく、神と同等になろうとして天使の座から落とされたと言われます。たとえ天使のような完全さがあっても、神に従うことを忘れたらサタンのようになってしまうということです。

司会者の方には14節まで読んでいただきました。15節からは箱船の詳しい説明ですので、お帰りになってからお読みください。ちなみにキュビトというのは長さの単位で、だいたい指の先から肘まで、人によって長さが違いますが、およそ44センチくらいと言われます。計算の好きな方は後で計算してみてください。6章最後の22節。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った」と書かれています。そして、7章5節。「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした」。少し言い回しが違いますが、同じことを繰り返しています。ノアが神様の命令に徹底的に従った、神様の言葉のとおりにしたことが強調されています。

神様の命令、それは箱船を作ることと、動物をそこに導き入れ、洪水の間、保護をすることです。どちらも大変な働きです。現代のような機械が無かった時代、しかもノアの家族だけで巨大な船を造るのは、並大抵のことではなかったはずです。しかし、ノアは、神様の命令に従うことが救いの道であると知っていました。また神様が命じたなら、かならず成し遂げることが出来ると信じていました。実際、神様の助けもあったでしょう。動物たちが二匹ずつ、箱船に入っていったこと、その後、一年もの間、その中ですごしたこと、それは神様の力が働いていたからこそです。

神様は御言葉を通して私たちにも御心を示されます。それに対して、どのように従っているでしょうか。神様の御旨は、私たちを救うことです。ですから、喜んで従うものとなりたいと思います。

もう一つ、ノアの服従に関して特筆すべきことは、ノアは一言も発していない、ということです。よっぽど無口な人だったのでしょうか。おそらく何かは語ったでしょうが、神様の命令に従う姿勢は確かだったのです。子供がお母さんから買い物を頼まれたとします。「ちょっと買って来て」と言われたら、たぶん、「何を買ってくるの」、これは命令を確認して正しく実行するための質問です。ところが、「なんで?」、これは理由を聞いているのではなく、行きたくない、という心の表れです。ノアが一言も発していないというのは、作っている最中に細かい点に関して質問をすることはあったでしょうが、従うことそのものに反論をしていないということです。

私たちも聖書に書いてあることに疑問を持つことは間違っていません。先日もある方から、電話で質問をいただきました。それは純粋に疑問を持たれたからですので、私も精一杯お応えさせていただきました。ある律法学者がイエス様に「隣人を愛する」ということを言われたとき、「隣人とは誰か」と訊きました。これは詳しく説明をいただいて実行する、という質問ではなく、自分の立場を弁護しようと思って、つまり従うのではなく従わないことを正当化しようとしての質問でした。私たちの動機は何でしょうか。従おうという思いか、それとも従わない思いか。ノアは神様の救いの言葉に従った、だから救われたのです。私たちも御言葉に喜んで従い、実行する者となりたいと願います。

でも、従おうと思って、なかなか従うことが出来ない頑固な自分、あるいは従う力が足らない無力な自分を発見することがないでしょうか。

3.任せる人ノア

さて、何日、あるいは何年かかったのか書かれていませんが、ようやく箱船が完成し、動物たちも中に入りました。最後にノアの家族が入った。次は何をしたら良いでしょうか。雨や波が入り込まないように、入ってきた入り口を閉じることです。7章の16節。

7:16 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。

最後の完成は神様がなさったのです。人間がどれほど素晴らしい人でも、どれほど神様に従っても、それで救われるのではなく、救ってくださるのは神様なのです。では神様は戸を閉じただけ、だったのでしょうか。17節で洪水が起こり、18節、「水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った」。漂うとは、自分ではコントロールできない、ということです。どこかの岩にぶつかって船底が壊れはしないか、心配です。いいえ、神様が船を導いていられるのです。何も出来ないノアは、神様に全てをゆだねていたのです。だから平安でした。これまでも、神様の言葉に従ったのは、その結果に関して神様を信頼していたからです。この主への信頼、すなわち信仰が無かったなら、救いは無かったのです。

さらに洪水が終わり、水が引き始め、ノアは窓を開いて外の様子を確かめました。地面が乾いてきたことを知ったノアはどうしたでしょうか。8章の11節。

8:11 鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。
8:12 それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。
8:13 ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。
8:14 第二の月の二十七日、地はかわききった。
8:15 そこで、神はノアに告げて仰せられた。
8:16 「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。

調査をして地面が乾いたことを知って、なおノアは待ったのです。神様の命令を待った。一月一日にノアは乾き始めたのを見た。でも、二月二十七日まで待っていた。神様に全てを委ね、従う。そこには待つということが大切です。信仰には忍耐が伴います。神様を信じてみよう、信じた、でも解決しない、だから信じるのはやめた。「信じてみたけど、やっぱりダメだった」、これは本当は信頼していなかったということです。結果がどのような形で、いつ起こるか、それは神様の計画です。いつ、どのように、それも神様を信頼して委ねるのです。信じた、後は神様にお任せしましょう。そうすれば、神様が完成してくださいます。

まとめ.

ノアは確かに立派な人でした。それに対し、私たちは不完全な人間であり、なかなか従おうとしない、不服従な頑固な罪人です。それでも神様と共に歩みたい、神様の御旨にそった者になりたいと願います。また御言葉に従う生活をしたいと求めています。しかし、簡単には出来ない、なかなか思ったようにはなりません。でも、それで良いのです。最後まで自分の思い通りではなく、信じたら最後は神様にお任せしましょう。できることがあれば、喜んでさせていただき、あとは神様を信頼し、箱船ではなく大船に乗った思いで、クリスチャン生涯を送って行こうではありませんか。

 

(c)千代崎備道

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