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礼拝説教「二つの系図」創世記5:1〜5
 

序.

聖書の中には難しい箇所がいくつもありますが、今日開きますのは、難しいというよりも、退屈な箇所の代表です。この系図というのは旧約聖書にはあちこちに出てきますが、私たちにとりましては聞いたことのない名前、しかもカタカナで意味も分からない名前ですので、たぶん、多くの方は、系図の部分にきますと、読むのに苦労されるのではないでしょうか。5章の系図の場合は、もう一つ、数字がたくさん出てきます。これも読みにくい理由の一つです。5章全体を読むのは司会の方にも、聞いておられる方にも、大変かと思いまして、5節までとしておきましたが、今朝は5章とその前後から御言葉を取り次がせていただきます。

初めて、この箇所を読まれた方が一番気になりますのは、おそらく寿命の長さではないでしょうか。アダムを始め、みんな800年、900年も生きている。現代の常識から考えますと、とうてい信じがたいものです。このことについて、先にちょっと触れておいたほうが良いので、今日の説教の主題ではないのですが、簡単に説明させていただきます。この異常な、とも言うくらいの長い寿命は、実はノアの洪水までの現象でして、ノア以降は徐々に短くなっていって、アブラハムの時代には現代とそれほど変わらないほどになります。ですからノアの洪水がこのことを関連しているということが分かります。科学的な説明は、まだまだ研究が進んでおりませんので、ひとつの推測として聞いていただいたほうが良いのですが、このような解説を聞いたことがあります。それは、天地創造のときに、神様が水を二つに分けて、上の水と下の水とされ、その間に大空があるようにされたと書かれています。ですから、空の上に水があった。空の上の水とは何なのか、それはとても分厚い、水蒸気の層があったのではないか、というのです。その水蒸気層が、太陽からの紫外線など、人間にとって害となるようなものを防いでいた。ところが、洪水の時にそれが大量の雨となって降り注ぎ、その結果、ノア以降はさまざまな有害なものが地上に到達するようになり、それが人間の体にも影響を与えた。そのために、おそらく遺伝子情報が傷つき、いろいろな肉体的な問題が生じてきた。本来、人間は数百年生きるように作られたのが、この遺伝子の損傷のために、代を重ねるごとに短くなり、現在のような百数十年が寿命の限界になったのではないか、という説です。もちろん、確認されているわけではありませんし、誰もが納得できる学説でもありませんが、一つの考え方としてはおもしろいものです。いまのところは合理的説明は将来の学者にゆだねて、書かれていることをそのまま読んで置くことにします。

大切なのは、なぜ、このような系図がここをはじめ、聖書のあちこちに書かれているか、系図のもつ意味はなにか、ということです。新改訳聖書では、1節に「アダムの歴史の記録」と翻訳されていますが、他の日本語訳では「系図の記録」、あるいは「系図の書」と書かれています。この言葉は系図とも歴史とも訳せることばですが、系図というのは人類の歴史において人間がどのようにつながっているかを示すものです。アダムとノア、ノアとアブラハム、そしてアブラハムからモーセやダビデ、これらの人はそれぞれが独立した存在ではなく、系図を介してつながっています。人間は一人だけの存在ではなく、つながりをもった存在です。この人間のあり方は、神学的にも重要なことです。アダムに始まった罪が後の全ての人間につながっていきます。アブラハムに与えられた祝福の約束が彼の子孫につながっていきます。それを示すのが系図です。

あるいは、系図は聖書の、まるで目次のようなものです。ながく聖書を読んでおりますとだんだんと知っている名前が増えてきます。すると、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと聞くだけで、創世記の後半の流れを思い出すことが出来ます。通常の書物の目次はだいたい、書物の最初にありますが、あの目次を丹念に読むのが好きな人は少ないのでは無いでしょうか。あれは、細かいことを考えるためではなく、書物の全体像や流れをつかむためのものです。聖書の系図も、それと同じように、他の箇所とは違う目的があり、読み方も異なって当然です。

前置きが長くなりすぎましたが、今日は特別な読み方で系図を考えていきます。「二つの系図」という題名をつけましたが、いつものように三つのポイントに分けてお話しします。第一に「カインの系図とセツの系図」、第二に「不従順の系図と従順の系図」、そして最後に「人の系図と神の系図」、という順序で進めてまいります。

1.カインの系図とセツの系図(4:17〜5:32)

さて、聖書の中で最初の系図は5章ではなく、4章の後半です。そこにはカインの系図が載せられています。弟を殺したカインのその後、彼の子孫が出てきます。4章の19節に、カインから六代目のレメクという人のことが書かれています。

4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。 4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。 4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。 4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。

ここに書かれていますのは、カインの子孫の中に、芸術や技術の始まりが見られる。カイン自身も初めて町を作った、と書かれています。ある意味では、カインの歴史は文明の歴史でもあるのです。しかし、良いことばかりではない、カインの子孫を通して、罪も増大していったのです。23節。

4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。
「アダとツィラよ。私の声を聞け。
レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。
私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
4:24 カインに七倍の復讐があれば、
レメクには七十七倍。」

これは復讐の歌とも呼ばれます。聖書は決して復讐を薦めていません。むしろ人間は復讐をしたくなる。一発殴られたら、二発お返しをしたい。ですから、旧約聖書を始め、当時の中近東世界の原則は「目には目を」、有名なハムラビ法典にも出てくることです。これは、復讐をしなさいということではなく、これ以上はいけない、という戒めです。神様がカインに「七倍の復讐」を語られたのも、そうすることで、他の者がカインを殺さないためです。ところがレメクはその神様の言葉を逆手にとって、自分が復讐する言い訳にしているのです。しかも、七倍を七十七倍にして、自分は神よりも上だと言いたげです。罪を悪いと思うどころか、罪の力を誇示する。それがレメクです。カインの系図は罪の系図です。

それに対して書かれているのが5章の系図です。アベルが殺され、カインも追放されたアダムとエバに、神様が与えてくださったのがセツです。もちろん、それ以外にも多くの子供がいたのですが、聖書は伝えたい部分以外は省略しますので、名前が残されているのがセツだったということです。セツの子孫はどうだったでしょうか。4章の26節。

4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

セツの子孫が始めたのは、祈りです。そこに信仰が芽生えたことが分かります。では、カインの罪の系図に対して、セツの系図は信仰の系図だったかというと、5章の書き方は、違うところに強調点が置かれているようです。では、もういちど5章の5節。

5:5 アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。
  5:6 セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。
5:7 セツはエノシュを生んで後、八百七年生き、息子、娘たちを生んだ。
5:8 セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。

この章で繰り返されていることは、彼らがどれほど長く生きたとしても、最後は「彼は死んだ」と書かれていることです。決して永遠に生きることはできない。それが罪のもたらした結果です。そして、5章の最後に出てくるノアの家族以外は、全て洪水までです。

さて、長すぎる寿命ですが、これを計算してみたことのある方はおられるでしょうか。私はしたことがあります。今回も説教の準備をするなかで、あらためて確認しておきました。誰が何歳の時に誰が生まれ、誰が死んでいるか、ここに出てくる数字を使って計算していみますと、一つ、興味深いことを発見します。27節。

5:27 メトシェラの一生は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。

このメトシェラという人は5章の中でも一番長生きした人です。ところが彼が死んだのは、彼の孫であるノアが600歳の時です。それはちょうど洪水の年なのです。一番長生きをしたメトシェラは洪水によって滅ぼされた。ですから、セツの系図も、決して皆が信仰に生きたのではない。どちらも、ノアを別とすれば、神の裁きである洪水によって滅んでいったのです。二つの系図は両方とも、罪の支払う報酬を免れることは出来なかったのです。

私たちも、同じ人間です。罪の系図の中にいます。親から子へと罪がつながっていく。それはどうすることもできないのでしょうか。

2.不従順の系図と従順の系図(6:1〜5)

さて、5章の系図を考えるうえで、その前後の流れが大切です。先ほどは4章を見ましたので、今度は6章を見ましょう。

6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。
4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

ここで、二つのことが聖書学者たちを悩ませています。一つはネフィリム、二千年前の学者は、これは巨人のことではないか、と考えたようです。それから、2節の「神の子ら」が何を意味するか。天使だという説と、天使ではないけれど、何か天的な存在ではないか、という説があります。あるいはセツの子孫、特に神に祈る人々のことだという意見もあります。どれにしても、「神の子ら」と呼ばれるくらいですから、神様に従う生き方をするはずなのに、ここでは、神の子らでさえ、自分の好き勝手な生き方をしています。美しいもの、自分の好むものを選び取る。それは、エバが、禁じられた木の実を食べたときと同じです。この、自分の欲望に従う生き方の故に、神様は人間の寿命を120年とすることに決めたと書かれています。旧約時代の人々は、長命を祝福の証拠と考えていましたので、その理解からしますと、彼らは欲望に従った故に祝福である長命を失っていった、と解釈することが出来ます。

しかし、その中で、二人だけ、例外がいた。一人は5章22節のエノクです。

5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

神とともに歩んだ、とは、神の御心に適う生き方をした、ということです。欲望ではなく神に従う、不従順ではなく従順な生き方です。その故にエノクは、死を迎える前に神様が彼を天につれていったと考えられています。もう一人はノア、6章の8節。

6:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。
6:9 これはノアの歴史である。
ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

ノアの場合は、洪水による滅びから救われました。エノクもノアも、神とともに歩み、救いをいただいたのです。しかし、残念なことに彼らの生き方は子孫に続かなかった。エノクの息子は先ほどお話ししましたメトシェラです。ノアの子供については再来週にお話する予定です。ここに示されているのは、ノア、彼については「その時代にあっても」、すなわち罪の時代の中で「全き人であった」。当時の人類の中で最高の人であった。しかし、それでも限界があった、ということです。不従順は滅亡に向かいます。従順は救いにつながる。しかし、人間の従順は永遠には続かない。だったら、どうしたら良いのでしょうか。

3.人の系図と神の系図

旧約聖書の中には、まだまだ系図が出てきます。そのたびに系図からメッセージをすることは大変ですので、今日は、他の系図のことにも触れておきます。と言いましても、開くのは大変ですので、いつかお読みくだされば結構です。ノアの洪水の後、ノアからアブラハムにつながります。それからイサク、ヤコブを通り、ヤコブの十二人の息子から、ルツ記ではユダからダビデまでつながります。ダビデ以降は列王紀に出てきます。これら全ての系図や歴史に共通することがあります。それは失敗の歴史です。アブラハムも何度も失敗しました。ダビデも、大きな罪を犯してしまいます。人間の系図は失敗だらけです。もっとも人間は悪いことは隠して、良いことだけを書きたいので、普通の系図は、私の先祖には何々という有名な人がいて、ということで、昔の武士たちは皆、自分の先祖は源氏であるとか、何々天皇にさかのぼる、とか言うわけで、中にはこじつける人もいますが、誰も、私の先祖は大泥棒です、とは言いません。でも、本当は誰の歴史も失敗の連続ではないでしょうか。人間の系図は罪の歴史、滅びの歴史です。そこには救いは無いのです。

しかし、救いをもたらす系図が、ただ一つあります。それは、あの有名なマタイの1章です。(開かなくて良いです。みなさんが新約聖書を読もうとして、一番最初に邪魔をするハードルです)

1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
  1:2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ...

そこに出てきますのは、決して新しいものではありません。旧約聖書の系図と同じです。アブラハムがあり、ダビデにつながります。そこにはダビデの失敗も示されています。しかし、この失敗の歴史、人間の歴史に、神様がイエス・キリストを送ってくださったのです。イエス様が来てくださったときに、失敗の歴史が救いの歴史となったのです。

人間はどこまで行っても人間です。神様に従順でいたいと思っても、失敗をしてしまう。それがダビデでありアブラハムです。しかし、神様が働いてくださるときに、初めて救いをいただくことが出来るのではないでしょうか。私たちも失敗だらけです。しかし、イエス様が心の中に来てくださったのです。このお方を信じお頼りするときに、失敗をも恵みに変えてくださるのです。

神様の恵みとそれを信じる信仰によって、私たちは救われました。そして神の子としていただいたのです。それによって、二つのことをしていただきました。一つは、キリストの系図に入れていただいたということ。もちろん人間の系図の中にいますから、失敗はまだまだあります。しかし、キリストの救いの系図に入れていただいたので、心配する必要はありません。もう一つは、永遠の命をいただいたということ。アダムたちのような長命ではなく、永遠につながる命なのです。

結論.

私たちは二つの系図の中にいます。人間の系図と、神の系図です。人間としては罪の中に苦しみ、肉体はいつかこの世を去るときが来ます。しかし、神の恵みにより、天国が約束され、救いの生涯を歩むことができるのです。クリスチャンになっても失敗があります。しかし、神様を信じ祈りなら、失敗をも祝福に変えていただけるのです。過去の失敗で悩む人もおられるでしょう。それも神様は感謝に変えてくださいます。人生が作り替えられ、救いの人生となるのです。

そして、この救いの恵みはそこで終わらない。「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」。家族にもあなたを通して救いが伝えられていくのです。自分だけが神の家族に入れていただくだけで終わるのではありません。この恵みを、次の人に、つなげていこうではありませんか。神の系図に生かされている者として、この救いを他の方々にも伝えて行きましょう。

 

(c)千代崎備道

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