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礼拝説教「罪の増すところ恵みも増す」創世記4:1〜7
 

 序.「罪の増すところには恵みもいや増せり」、これはローマ書の中の一節です。もちろん、これは罪が多いほうが恵みも多くなる、だから罪をもっと犯そう、ということではないとパウロも戒めています。この聖句の言わんとするところは、罪と、その結果の死に対して、人間は全く無力である、けれども恵みはもっと大きい、ということです。時に私たちは罪の力に圧倒されることがあります。悪の支配に苦しめられることもあるでしょう。しかし、その悩みの中で主を仰いだときに、さらに大きな、圧倒的な恵みに触れるのです。それがキリスト教の救いの素晴らしさです。私の好きな詩編の言葉に「我らの咎がわれらに打ち勝つとき、あなたはこれを赦される」という御言葉があります。今朝は、罪の恐ろしさと、それにまさる神の恵みを、創世記4章を通して見てまいりたいと思います。

 いつものようにお話を三つのポイントに分けます。第一に「罪の始まるところ」、第二に「罪の増すところ」、そして最後に「罪を超える恵み」、という順序でメッセージを語らせていただきます。

1.罪の始まるところ

 神様に造られた人間に罪が入り込んだのが創世記3章ですが、4章はその罪がアダムの息子であるカインに引き継がれていく様子が書かれています。アダムとエバに二人の息子、カインとアベルが生まれ、二人は成長してそれぞれ農業と牧畜をするようになりました。ある日、二人が神様を礼拝するために献げ物をもってきた。カインは農作物を、アベルは羊か山羊を連れてきて、神様に献げたのですが、神様はアベルの供え物を顧み、カインの供え物は顧みなかった。片方にだけ天から火が下ったのか、具体的には分かりませんが、とにかく、カインには自分の供え物が受け入れられなかったことが分かったのです。

 ここでおそらく多くの人が疑問に思いますのは、どうしてアベルの供え物はOKで、カインのはダメだったのか、です。何か理由があったのは間違いないでしょう。さもなければ神様がえこひいきをした、だから問題が起こった、ということになってしまいます。では何が理由か、それについて聖書ははっきりと書いておりません。様々な推測がなされてきました。一つのもっともらしい説明は、アダムが罪を犯したときに神様は「土地はあなたのゆえに呪われた」とおっしゃたので、土地の産物は呪われたものだから受け入れられなかった、という説です。じゃあ、農業は悪いことなのか、と言いますと、後に農作物も神様に献げることが律法に書かれています。それから最も良く言われる説は、アベルの献げ物については初子の中から最上のもの、と書かれている。(確かにそれは一番良いものを神様に献げる、という信仰です。ある人は献金をするときにも新しいお札を献げるそうです。神様に最上のものをお献げする、その姿勢が大切です。だからといって、しわくちゃなお札は喜ばれない、ということではありません)。逆にカインは、悪いもの、たとえば腐ったような作物を献げたのでしょうか。聖書は何も告げていません。これは、どうしたら神様に受け入れられるか、を私たちに教えるのがこの箇所の目的ではない、ということです。私たちにとっては、どういう方法がいいとか、他の人はどうか、ではなくて、自分が神様に真剣に祈り、真心から献げることが大切です。ですから、ここには理由は書かれていない。でも、一人、その理由を知るべき者がいました。それはカイン自身です。

 カインは自分の供え物が受け入れられなかったとき、どうしたでしょうか。自分の中にある理由を考え、それをお詫びして、もう一度神様に礼拝を献げ直したか。そうではなく、彼は「ひどく怒り、顔を伏せた」。神様に顔を向けるのではなく、自分の心を吟味するのでもなく、カインは怒り、そしてアベルを憎んだのです。神様はカインの中にある危険性に目を留め、「罪を犯すのではなく、それを治めよ、その罪が実行されないように押さえつけるように」と諭されました。しかし、カインは御言葉に従うのではなく、感情のままに罪を犯すほうを選んだのです。よく、アダムの罪により原罪が人類の中に入った、だから全ての人間は罪を犯すのはしかたがない、という考え方があります。ある面ではそれは真理です。しかし、原罪があるから罪を犯すのは自分の責任ではない、とは言えません。カインは自分の意志で罪を選んだのです。私たちも、罪を犯さないほうを選ぶことも出来たのに、間違っていると分かっているほうを選びとって来たのではないでしょうか。罪は生まれつきであると同時に、一人一人の意志において実行される。罪の始まりは、アダムであり、そして自分自身の責任でもあるのです。誰も言い逃れは出来ません。しかも、この罪は、さらに悪くなって行きます。

2.罪の増すところ

 アダムが罪を犯したとき、神様は話しかけてくださった。そのとき、彼は罪を認める代わりに、責任を妻に押しつけました。しかし彼の罪に対する裁きが下されたときは、アダムは何も言わずに、その裁きに従いました。しかし、カインはどうだったでしょうか。神様は彼にも話しかけて罪を認めるチャンスを与えられた。でもカインは、認めないだけでなく、嘘をついて誤魔化そうとしています。9節。

4:9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

知らないと言っただけでなく、「私は弟の番人なのか」と神様に対して「指図をするな」とでも言うようです。罪を罪で固める姿は、アダムと同じか、それ以上かもしれません。しかし、神様は正しい裁きを下されるお方です。弟の血を流したために土地が呪われた、と表現していますが、作物の献げ物が発端で罪を犯したカインに対して、これからは彼が耕しても実りが無くなり、その結果、彼は自然に実ったものを探して放浪することを告げています。それが12節。

4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

この裁きに対して、カインはどのような態度だったでしょう。彼は、黙って罰を受けるのではなく、神の裁きでさえ不服としたのです。13節。

4:13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。

この言葉は一見、彼が自分の罪を悔いているかのようですが、良く読みますと、彼は「咎」、すなわち罰が大きすぎる、と訴えているのです。神様が言われたのは、さすらい人とは、放浪生活をする、すなわち、そのような生き方ではありますが、生きることを許可しているのです。これを旧約の律法と比べるなら、格段に軽い刑罰と言うことが出来ます。しかし、カインはそれでも不服だったのです。さらに彼は、14節。

4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

「あなたの御顔から隠れ」と、神様が言わなかったことまで付け加えて、自ら神様の前を離れようとしているのです。

 アダムからカインへと罪が受け継がれました。しかし、カインはアダム以上の罪人となって行きます。罪は、放っておくと、ますます神様から離れていくのです。その結果、人間はどうなるのでしょう。

 最初は、悪いと思いつつ、してしまう。それが、やがて言い逃れをするようになり、ついに悪いとも思わなくなる。これが罪のもつ性質です。本当に恐ろしいものです。もちろん、むやみに怖れる必要はありませんが、決して甘く見てはいけない、真剣に罪から離れる必要があるのです。どうしたら良いのでしょうか。

 皆さん、薄暗い部屋の中に外から光が差し込むのをご覧になったことがあるでしょうか。それまでは見えなかったホコリが部屋中に舞っているのが分かります。薄暗いときには見えないものが、太陽の光によって見えるようになるのです。私たちが、救われて、神様に近づいて行きますと、きよい人間になるのかと思ったら、反対に自分の罪深さに気がつくことがあります。自分はクリスチャンとして失格だと思われる方もいらっしゃいます。しかし、それは神様に近づいたからこそ、罪が分かるようになり、さらに罪に対して敏感になっている証拠です。反対に、神様に背を向けていると、やがて罪に対して感覚が鈍くなり、平気になり、罪が分からなくなってしまうのです。いつも神様に向かって進んでいるでしょうか。それとも神様から顔を背け、下を見て、背を向けていないでしょうか。どちらの道を選ぶか。罪から離れ、神様に近づく生き方を選び取ってまいりましょう。

3.罪を超える恵み

 さて、人間がますます罪に染まっていくのをご覧になって、人間をお造りになった神様は、どう感じておられたでしょうか。神様は判決に文句を言っているカインに対し何とおっしゃったでしょうか。カインは減刑を求めて、まだ起こってもいないことを心配していると訴えました。それが14節の最後。

それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう

 この大げさな言葉にも、神様は恵みをもって聞き入れて応えて下さいました。15節。

4:15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。

カインが誰かに殺されないように、もし殺す者には神様ご自身が復讐する、そのしるしを下さった、と書かれています。ところで、このしるしとは何か、これがまたミステリーです。何か額に目印が付けられたのか、残念ながら聖書は何もヒントを書いてません。いろいろな推測がされました。ある学者は、特別な髪型だったのでは、と言います。また、一番、面白かったのは、この印とはイヌである。カインにはいつもイヌがお伴をして守ったのだと言うのです。多分、イヌ好きの学者なのでしょう。

 しるしが何かは分かりませんが、しるしが何を意味するか、は学ぶことが出来ます。この「しるし」という言葉は、二通りの意味で使われます。一つは文字通りのしるしで、例えば月や星が造られたのは、季節のしるしとするためだと書かれています。もう一つは特別な意味をもったしるしです。例えば、ノアやアブラハムに対しては契約のしるしが与えられました。またモーセやギデオンには神が共におられるしるしとして奇跡が行われました。預言者たちも特別なしるしについて語りました。有名なのはイザヤが言った言葉、「主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」。では、カインの場合はどうだったでしょうか。当たり前のものだったらば、殺されないためのしるしとはなりません。何かは分かりませんが、特別なしるしです。それは彼の命を神様自身が共にいて守ってくださるという約束のしるしです。この特別な意味でしるしが与えられたのは、聖書の中ではカインが最初なのです。罪人のカインに、神様は特別な恵みを与えられたのです。

 たとえ罪が増し加わっても、たとえ私たちがどんな罪人であっても、なお神様は共にいて下さり、特別なことをして下さる。それが何であるかは、神様が決めなさることであり、人によって異なります。しかし、全ての罪人に対して与えられたしるしがあります。罪ある人間の世に来てくださり、神我らと共におられる、しるしとなり、罪を赦すために身代わりとなって下さった、それがイエス・キリストの十字架では無いでしょうか。神様は私のような罪人をも見捨てず、愛をもって救って下さる、その揺るぐことのないしるしが、十字架なのです。どれほど罪が大きくても、神の恵みはそれ以上のものなのです。

まとめ.

 今日、洗礼を受けられる姉妹にも、そしてここにおられる皆さんにも、二つのことを覚えていただきたいと思います。それは、罪の恐ろしさ、カインだけではなく、私たちも一歩間違えれば罪に向かっていく弱さをもった存在です。ですから、自分の力に頼るのでは無く、神様の助けをいつも祈り、神様に信頼してお頼りする、信仰の歩みを続けていっていただきたいのです。そして、たとえ自分が絶望的なほどの罪人であると思わされても、なお神様は共にいてくださる恵みのお方だと言うこと。そのしるしである十字架を見上げつつ、罪にではなく、神様に近づいて進んでいこうではありませんか。

 

(c)千代崎備道

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