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礼拝説教「審き、即、救い」創世記3章22〜24節
 

序.「神は愛である」という言葉は、教会に一度も来たことがない方でも聞いたことがあると思います。ところが聖書を最初から読んでまいりますと、罪人を罰する神様がおられ、「怖い神」という印象を持たれるようです。そして、なぜ愛の神様がこんな恐ろしいことをされるんだろうか、と疑問を持たれます。私の尊敬する先生が、このようにおっしゃっておられたのを覚えております。それは、愛の神からスタートするのではなく、まず神は義なる神である、ということです。神様は義なるお方です。ですから罪に対しては必ず審きを下されます。ところが、その義なる神が、同時に愛の神であり、罪人である人間を救ってくださる。だから福音なのです。

 聖書の中には、神の怒りや審きということが書かれています。また、神の恵みや救いといったことも出てきます。この二つの側面は、決して矛盾や対立ではありません。両方とも、神の愛と義の現れです。義を抜きにした愛は、悪いことをしても「いいよ、いいよ」と甘やかしてしまい、「甘やかす」という言葉は英語では「スポイル」、つまりダメにするという意味です。しかし、義であり愛である神様は、愛に根ざした審きをされるので、人をダメにしたり滅ぼすのではなく、救いに導いてくださるのです。

 今朝は、この聖書の教える真理を、創世記の3章後半から学んでいきたいと思います。いつものように三つのポイントに分けてお話いたします。第一に「裁かれるべき罪」、第二に「審きの中の救い」、そして第三に「神のたてられた計画」です。

1.裁かれるべき罪

 少し戻りまして、11節を読ませていただきます。

3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

この質問は、神様の命令に背いた人間に、その罪を認めさせるための言葉です。3章の前半で、人間は、神様から食べてはならないと命じられた木の実を食べてしまい、その結果、自分の裸を恥と思い、また神様を恐れて隠れていた。そこで神様は人間に呼びかけ、神様の前に出てこさせたのです。「誰が」という問いに対する答えは「誰でもない、自分が原因」なのです。ところが罪を犯した人間は、その罪を認めて悔い改めなくなります。それが罪の恐ろしさです。悔い改めの代わりに人間がしたことは何でしょうか。12節。

3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

彼は妻に責任をなすりつけました。助け手であり一体であるはずの夫婦が、お互いを裁き合う。人間関係の破壊、これが罪の結果です。さらに、この人間の答えは、その妻は「あなたが私のそばに置かれた」、つまり、神様を非難しているのです。自分は悪くない、それを主張するとき、悪いのは他者であり、神様さえも訴えるのです。女性も同じことをします。自分は悪くない、ヘビが悪い。男のしたことにならって、責任をたらい回しにしたのです。

 前回、先々週になりますが、二人が神様の命令に背いて、禁じられた木の実を食べたのは、自分が神になりたいという自己中心が根底だとお話ししました。自己中心は、同時に自分は正しいと主張します。これを自己義認と言います。自分は正しいと言い張るために、決して自分の罪を認めようとしない。神様は罪を認めて悔い改めることを求めたのですが、それを拒んだのです。ですから、神様はその罪を裁かれたのです。人間は自ら審きを招いたのです。

 もし人間が、自分は悪くない、という高慢を捨て、へりくだって自分の罪を認めるなら、また「本当に悪かった」と心が砕かれるなら、神様はその悔い改めを受け入れて、軽んじることはない。それが聖書の教えるところです。しかし、人間は悔い改めの道を拒み、したがって彼の罪が確定した。ですから、義なる神様は審きを下さなければなりません。私たちはどうでしょうか。誰でも自分が悪いと認めるのが苦手です。他の人に責任をなすりつけるのは得意です。悪いのはあの人、この人。環境が悪い、元をたどれば神様が悪い。自己義認、自己中心です。神様はこの罪に対して、どのような審きを下されるでしょうか。

2.審きの中の救い

 神様の審きの宣告が、14節からですが、16節からお読みします。

3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。 18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

この審きの結論は、ちりに帰る、すなわち死ぬということです。先に神様はこの木の実を食べたら死ぬと警告されていたのですから、当然の、そして正しい審きです。命令に背いたのですから、すぐに殺されても文句は言えない立場です。死ぬのはまだ先です。しかし、いつか必ず命が終わるときがくる。人は死すべき存在となった、罪の支払う報酬は死である、と新約聖書が教えている通りです。神の裁きは下されました。しかし、この裁きの背後には神の愛がありました。審きの宣告を丁寧に見ていくなら、そこに神様の恵みを知ります。

 まず、女に対する審き。男は塵から作られたので塵に帰る。だったら女は骨から造られたから骨に帰る、とは言っていませんが、やはり塵に帰るのは当然です。でも、ここで神様がおっしゃったのは、出産の苦しみが大いに増す、ということです。これは決して、出産が罰であるとか、出産の痛みが審きだというのではありません。大いに増すということは、その前から苦しみがあることを意味します。苦しみはあるけれど、出産は喜びをももたらすものです。実は、神様は出産の苦しみについて語ることで、死ぬべき存在であり彼女に、新しい命が与えられることを予告されているのです。自分が死んで終わり、ではなく、子孫が与えられる。個人としては死ぬときがくるけれど、人類としてはまだ生きるチャンスが与えられた。これが恵みです。

 男はどうでしょう。やはり苦しみがもたらされます。労働の苦しみです。これも働くことが罰なのではありません。すでに2章で人間が作られたときに、神様はエデンの園で土を耕すように命じたのです。働くことは本来は喜びをもたらし、実りをもたらします。ところが、それが苦痛となった。それが審きです。しかし、その審きの背後には恵みがある。すなわち、汗を流すが、日々の糧は与えられる、という約束です。命を長らえることが出来ます。

 さらに、最初に司会者に読んでいただいた箇所、23節では、罰としてエデンの園から追い出されるのですが、これも審きであると同時に救いです。なぜなら、このままエデンの園にいたら、やがて命の木の実を食べてしまう。そうしたら苦しみを受けたままで永遠に生きることとなる。これは地獄です。そうならないためにも、神様は人間をエデンの園から出されたのです。神様の審きは、罰ではない、それは正しい審きであり、かつ救いも与えられている、恵みなのです。

神様の審きにゆだねるというのは、受けるべき罰があったとしても、それは正しい審きであり、そしてかならず救いの道があり、恵みに満ちている。それが神様の審きです。私たちが自分の罪を認めて悔い改め、神様にゆだねるなら、神様は救いの道を示してくださるのです。その救いの計画が、この3章、罪の審きの中にも示されています。

3.神の立てられた計画

 この三章で述べられている救いの計画は、原始福音、正しくは原・福音と呼ばれるものです。救いの計画については、これから聖書の中でだんだんと明らかにされていくので、この段階では断片的でおぼろげです。しかし、結末、すなわち新約聖書を知っている私たちは、その計画を読みとることが出来ます。新約の光を当てると旧約がよく分かるようになります。

 まず、第一に、先ほどとばした蛇への審き、14節はいろいろと難しい問題を含んでいて、たとえば、「腹這いであるくようになる」ということは、それまでは腹這いではなく、足で歩いていたのだろうか。そのような聖書に書いていないことを語ることを、蛇に足と書いて蛇足と言います。蛇への審きの結論を見ましょう。15節。

3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 14節はヘビ自身に関することですが、15節は、ヘビの背後にいる、あるいはヘビが象徴している、悪魔に関してだと考えられているところです。ヘビの子孫とは、女の子孫と語呂合わせにするためで、ヘビ自身と同じです。ところが女の子孫という言葉は、男性名詞を使っているので女自身ではありません。また子孫は単数形で書かれている。もちろん、単数でも子孫全体を意味することが可能ですが、しかし、特に女の子孫のうちの一人が、示唆されています。その特別な彼は、ヘビの頭を踏み砕く。ヘビも彼のかかとにかみついて傷を負わせるけれど、それ以上にヘビは致命傷を与えられて滅ぼされる。それが悪魔を倒して救いをもたらすという約束となっているのです。女の子孫、すなわち人間として生まれたお方が、傷を受けながら人間の敵を倒し、救いをもたらしてくださる。それが新約聖書で成就したのが、イエス様であり、十字架です。

 第二に、21節では、イチジクの葉っぱという頼りないものではなく、神様は皮の衣を作ってくださった。罪の結果である恥を隠してくださった。人間の罪を覆ってくださる。そのために、何が起こったでしょうか。神様は何もないところから動物の皮だけを作ることも、出来なくはありませんが、それよりも、一匹の動物が殺されて、その皮が用いられたと考える方が自然です。罪を覆うために血が流される。これは後に律法において教えられる、地による贖い、の始まりです。本当なら自分が殺されるはずだった、それを羊や山羊が身代わりとなって死ぬ。それが動物による贖罪です。自分の罪の恐ろしさを実感しつつ、罪の赦しをいただく、それが贖罪の動物において教えられることです。もちろん、神のかたちである人間の身代わりとして羊や山羊は相応しくはありません。しかし、それはやがて完全な身代わりが来ることを指し示すものでもあります。動物ではなく、人間に相応しいのは人間であり、しかし、人間自身は誰もが自分の罪がありますから、他の人の身代わりとなることは出来ません。ですから、罪の無いお方、神であるお方が身代わりとなる。それがヨハネの福音書が語っている「神の子羊」です。

 第三に、神様は命の木の実を守られた。それは人間が食べないようにとの配慮であると先ほど述べましたが、それと同時に、命の木をとっておくためでした。ケルビムという天使は神様のすぐそばで仕える存在です。ですから、命の木は神様のそばに隠された。今はどこにあるのでしょうか。エデンの園の場所については、この後、聖書は何も語っていませんし、どこにあったとしてもノアの時代に洪水で全て無くなったはずです。しかし、命の木はなくなったのではありません。ちゃんと新約聖書に出てきます。お帰りになってから確かめてください。というとたぶん、今、開いて読みたくなるのですが。聖書の最後の、黙示録の最後の章に出てきます。それは天国です。ですから、私たちが天国に入れていただいたときに食べることが出来るのです。そして、まさに永遠の命、永遠の審きではなく永遠の救い、永遠の喜びが伴った永遠の命なのです。

 神様は、人間が罪を犯すことを知らなかったのではありません。悪魔に好きを突かれて、せっかく作った人間を台無しにされてしまった、というのではない。神様は罪や悪魔に負けてしまうお方ではありません。人間を自由意志を持った存在として作られたときから、予測していられた。だから、創世記の最初からすでに救いの計画を立てておられ、それを徐々に示し初めてくださったのです。パウロは、私たちが救われたのは、神様は天地の作られる前から私たちを選んでくださったんだ、と語っています。天地創造の前から、私たちを救うための計画を立て、全てのことを用意されておられたのです。その神の義による審きと、愛による救いとが、完成し、全ての予告が成就し、すべてのことが結集したのが、それが十字架です。罪の審きとしての死をイエス様は受けてくださった。苦しみを受けられ、血を流された。この十字架によって私たちも罪を赦していただいたのです。十字架こそ、審きであり救いなのです。

まとめ.

 人間が罪を認めることを躊躇する理由の一つは、神の裁きが恐ろしいからです。しかし、聖書の神がどんなお方であるかを知るなら、すなわち神様は義であり愛であることが分かるとき、私たちは神様の審きに身をゆだねて、罪を悔い改めることが出来ます。そして、神の義に服従し、従うなら、神様は救ってくださるのです。キリストの十字架による救いを信じ、神様の前に立ち返るなら、神様は義と愛によって救ってくださり、天国の救い、永遠の命を与えてくださいます。罪を悔い改めて神様の下に帰りましょう。また、この救いに入れていただいたことを感謝し、こころから神様を賛美し、神様のお言葉に従おうではありません。

 

(c)千代崎備道

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