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礼拝説教「あなたはどこ?」創世記3章1〜6節
 

礼拝説教「あなたはどこ?」創世記3章1〜6節 序.人間は好奇心を持っています。知りたい、という思いがあります。それが様々な学問を発達させてきた原動力でもあります。しかし聖書は人間の好奇心を満たすために書かれたのでは無く、神様が私たちに告げようとされたメッセージが書かれているものです。創世記は世界の始まりについて書かれているのですが、世界がどのように出来たか、その全ての問いに答えているのではありません。たとえば、天地創造の第一日の「前」に関しては何も語っていません。創世記の1章は、世界はどのように出来たのか、よりも、神様が世界を創造されたとはどんな意味を持つか、が重要です。同じように、今朝開かれました第3章は、罪の始まりなんですが、なぜヘビが登場したのか、という疑問には答えてくれていません。この箇所で語られているのは、人間の罪とはどのようなものなのか、です。罪の現実について書かれているのです。

 私たちはエデンの園のような世界に住みたいと願いますが、現実の人間はエデンの園ではなく、罪の世界に住んでいます。出来ることなら美しいものだけを見て、楽しいことだけをして、美味しいものだけを食べて、生きたい。しかし、実際の世界は問題に満ちているのです。良いことだけではなく、人間の罪がある。それは嬉しくないことですが、聖書は、その罪の問題に目を向けさせます。それは、罪を見つめるところから、救いは始まるからです。

 今日のメッセージは、罪についてです。三つのことをお話させていただきます。第一に、罪の本質について。第二に、罪の結果。アダムとイブが罪を犯した結果、どうなったのか、です。そして最後に、神の救い。人間が罪を犯すようになってしまったという、悲惨な出来事の中にも神様は救いの道を示しておられるのです。

1.罪の本質

 さて、もう一度、3章を見てみましょう。1節で、ヘビが女に語りかけています。一体、ヘビは何語をしゃべったのでしょうか。答えは、「ヘビライ語」、というのは古いジョークです。そもそもヘビがしゃべることが出来るのか、とも思います。また、この人間を誘惑したヘビは何者なのか。昔から、このヘビはサタン、すなわち悪魔であるという考えがありましたが、創世記の中には他に悪魔は登場していませんので、それも神様が創世記を通して告げておられる主題では無い、ということです。分からないことはそのままにして、書かれていることを見ていきたいと思います。

 まず、ヘビが女を誘惑した言葉に注意してみます。

  3:1 蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

実に狡猾な言い方です。敢えて、間違っている内容を質問しています。女は残念ながら、この質問に引っかかってしまいます。

  3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

  3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

 ここにもいろいろと問題があるのですが、一つだけ。「触れてもいけない」とは神様はおっしゃりませんでした。すでに神様の言葉を間違って覚えているのです。つぎのヘビの言葉が重要です。

  3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

  3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

ヘビの誘惑は、神のようになれる、ということでした。人間は神のかたちに造られた。それだけでも十分に光栄なことなのに、さらに神と等しくなれると言われたときに、そうなりたいと願ってしまったのです。そして、6節、

  3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

「好ましかった」というのは、判断の基準が神の言葉ではなく自分の主観になっていることを示します。二人はその木の実を食べてしまったのです。

 さてヘビの問題は置いといて、先に食べたのは女だから、女が悪い、という議論は意味がありません。なぜなら、男(この言葉は、男とも夫とも訳せる言葉です)は、いっしょにいたと書かれていますから、ヘビと女のやりとりを聞いていたかもしれないし、食べるのを止めもしなかった。それ以前に、神の命令を直接に聞いたのは男のほうですから、それを正しく伝えていなかった。それは男も神の言葉に対して正しい態度ではなかったことを意味します。ですから、二人は同罪なのです。

 この箇所は、誰が悪い、ではなく、罪とは何かを教えています。罪の本質、それはヘビが言ったように、「神のようになれる」です。自分が神のように、いえ、神になりたい、この自己中心、あるいは自己神格化こそ罪の根っこなのです。そして同じ罪を私たちも持っています。神様の言葉よりも自分の考えを優先させ、自分の利益や欲望を実現させたいと願う。神のようになんでも思い通りにしたい、それが人間の罪です。神と等しくなりたい、とは、神よりも上になりたい、言い換えますと、神に支配されるのではなく、神をも思い通りにしたい、という罪につながっています。同じ罪を私たちも持っています。神の言葉に対して、自分も対等であろうとするのです。自分が好ましいことをするのです。ですから、創世記3章は私の問題でもあるのです。

2.罪の結果

 では、罪によってなにが起こったのかを見ていきましょう。よく、イブが食べたのはリンゴの実だと言われますが、全くの俗説でして、聖書には「善悪の知識の木」とだけ書かれています。何科に属する植物か、全く分かりませんが、美しく、神のようになれると思えるほど素晴らしい実でしたので、女はそれを食べ、夫も食べた。どうなったでしょう。7節。

  3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

「目が開かれた」と書かれています。実はヘビの言ったとおりなのです。しかし、ヘビは半分本当のことを混ぜた嘘をついていた。神のようになるのではなかった、目が開かれて彼らが知ったことは、自分たちが裸である、ということでした。それまでも裸でしたが、それを恥ずかしいとは思わなかった。ですから、このときから恥ずかしいと思い始めたのです。それは何を意味しているかと言いますと、神の形という栄光ある存在として造られたはずなのに、その自分を恥ずかしい存在だと感じるようになったということです。セルフイメージが崩壊してしまった。罪は私たちのセルフイメージを低くします。間違った存在だと思わせます。それが罪のもたらす結果の一つです。

 第二の結果、二人は裸を隠そうとしてイチジクの葉で腰を覆いました。なんと頼りない救いでしょうか。すぐに枯れてしまうようなものです。しかし、神の形につくられたことよりもイチジクの葉のほうが良いと考える。ここに価値観の混乱が起きているのです。何が良いかが分からなくなる。無価値なものを求めるようになる。私たちも神様を第一とする価値観ではなく、世の中にあるものを第一に求めていないでしょうか。

 そして第三の結果、それは神との関係の断絶です。8節。

  3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

神様から身を隠すようになったのです。隠れよう、逃げよう、避けよう。自ら神との関係を断っている姿です。神との関係の混乱は、人間同士の関係の混乱へとつながっていきます。それは次回にお話することですが。

 神様は、この木の実を食べたら死ぬと言われた。でも二人は食べても死ななかった。そうでしょうか。人間は神のかたちに造られ、神の命の息、神の霊を与えられ、神との交わりができる存在として造られました。ですから、神との関係に生きることこそ、人間の本当の生き方です。神との関係が壊れたときから、人間の命は死に向かうようになったのです。神の目には死んだ者となってしまったのです。肉体は生きていても、本来の人間の姿は死んでしまった。いえ、肉体もやがて死ぬのです。神様のおっしゃった通りなのです。

3.神の救い

 この罪を犯した二人のところに神様が近づいて来られました。9節。

  3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

 この8節と9節では神様は人間のような有様で登場されています。大変に牧歌的な表現です。当時の人間が理解できるように、このような書き方をしたのでしょう。そして身を隠した人間に対して「どこにいるのか」と訪ねられました。擬人的な描写をしていますが、神様は霊なるお方であり、また全知全能の神です。全てのことをご存じですので、この質問は質問ではありません。人間の場所が知りたいのではないのです。むしろ人間に対する呼びかけであり、答えを求めるのではなく反省を求めている。すなわち、人間が自ら姿を現して、罪を犯したことをお詫びすることを願っておられたのです。もし二人が罪を認めて神様の前に進み出るなら、救いがあったはずです。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」。有名な御言葉です。しかし、残念ながら人間は罪を認めようとしなかった。それが10節以降ですが、それは次回に回します。

 罪とは何か。新約聖書のギリシャ語では罪という言葉の意味は「まとはずれ」だと教わります。的はずれとは、人間が本来生きるべき道からそれていることです。正しい道を見失っている状態です。自分の姿も見えなくなっているのです。そこから様々な問題が生じます。罪人であることに気がつかず、私は正しいと自己義認をしていないでしょうか。逆に栄光ある存在であるはずが、自分はダメだと自己憐憫に陥っていないでしょうか。恐れや不安にとらわれていないでしょうか。他者との関係が壊れて孤立していないでしょうか。私たちも様々な問題の中に埋もれて自分の姿すら見えなくなっている。その罪人に対して、神様は「あなたはどこにいるのか」と問いかけておられるのです。この呼びかけに対して「私はここです、罪の中にいます、助けてください」と応答するなら、救いが始まるのです。

まとめ.

 「どこにいるのか」という言葉は、イエス様のたとえ話を思い出させます。99匹の羊を置いて、迷子になった一匹を探し求める羊飼いの姿です。「どこにいるのか」と叫びながら探したことでしょう。人間は罪を犯した。それは神の言葉に逆らったためであり、その結果、迷子になった。自業自得です。しかし愛の神様は、身動きが出来なくなった羊を救うために、自ら近づいて来てくださり、声をかけてくださるのです。「あなたはどこにいるのか」という主の御声に対し、「私はここにいます、罪の中です」と自分の姿を認め、助けを求めるなら、神様は御手を伸ばしてくださるのです。

 「あなたはどこにいるのか」。今日、私はどんな状態にあるでしょうか。神様との関係、人との関係はどうでしょうか。御言葉に対してはどんな姿勢でしょうか。もし神様の前に隠れようとしている部分があるなら、それを認めて、神様の御手にすがりましょう。

 

(c)千代崎備道

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