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礼拝説教「骨まで愛して」創世記2章21〜25節
 

 今朝の説教の題名を見て、まあ古い曲名だ、と思った方もおられると思います。この歌を知っておられるということは、私よりは年上なのかと思われます。私は題名しか知りません。それはさておき、男女の恋愛の話というのが礼拝に相応しいのか。おそらく、あまりそぐわないと考える方が少なくないでしょう。しかし、不思議なことに聖書の中には男女の愛に関して扱っている箇所がいくつかあります。それは、恋愛を教えているのではありません。男女の愛を通して、もっと深い真理を伝えるためです。

 旧約聖書では雅歌という書がありますが、これはまさに男女の恋愛の歌か、あるいは婚姻の歌と言われています。なんで、こんな歌が聖書に含まれているのか、昔から議論されてきたのですが、結論としては、この愛は、神の民イスラエルに対する神の愛を表しているとされています。またホセア書という預言書では、預言者ホセアとゴメルという女性の関係を通して、やはり神の愛を教えています。また、新約聖書でも、エペソ書では夫婦の関係が、キリストと教会との関係を象徴するとされており、最後の黙示録では、イエス様の再臨を、キリストと教会の婚姻という言葉で語っています。そのような男女の愛に対する聖書全体のとらえ方は、この聖書の最初の書物でも大きな意味をもっているのです。今朝の箇所は結婚式において理想の夫婦に関しての教えとしても大切な言葉なのですが、そこから特にキリストと教会の関係、神様と私たちとの関係を考えて行きたいと思います。

 三つのポイントに分けてお話を進めてまいります。第一に「これこその愛」。これは23節のことばから来ています。第二に「一体の愛」、24節ですね。そして最後に「恥ずかしくない愛」、ということを語りたいと思います。

1.これこその愛

 先週お話したところと少し重なるのですが、神様は最初の人、後でアダムと呼ばれるのですが、人間には相応しい助け手が必要だとおっしゃいました。そこで、彼のところに様々な動物が連れてこられ、どの動物ならば人間の助けとなるかを見られました。牛はどうでしょう、人間に最初に与えられた仕事は耕すことでしたから、牛は役にたつかもしれません。しかし、助けになっても、相応しい助け手とまでは行きません。どの獣も相応しくなかったのです。神様が人間に獣たちの名前を付けさせた、と書かれています。旧約聖書では、名前というのは単なる記号ではなく、その存在の本質を示すと考えられています。ですから、人間が名前を付けたというのは、その動物をよく観察して、その本質を捉えたということを意味しています。本質において人間の助け手として相応しい生き物はいなかったのです。そこで神様が連れてこられたのが、女性だったのです。長い時間をかけて動物たちを観察し、そして失望していた彼は、彼女を見たときに、ようやく相応しい相手が見つかったと、感動して叫んだ、それが23節の言葉です。

   人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。

   これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

女と名付けた理由が、男から取ったから、というのは分かりづらいですが、これは一つの言葉遊びです。旧約聖書の言語であるヘブル語には、すべての名詞に男女の性別があります。たとえば、雄馬は「スース」、それに対して雌馬は「スーサー」です。それで、この節の男と女は、それぞれ「イーシュ」と「イッシャー」という言葉です。スースに対してスーサーで、イーシュに対してイッシャー、つまりダジャレみたいなものです。実は旧約聖書にはこのような駄洒落がいっぱい出てきます。ダジャレの好きな方、とても聖書的な趣味です。もちろん、これは単なる言葉遊びではありません。男と女とが、互いに相応しい相手であることを示しています。そのことを違った表現で示しているのが、先ほどの動物たちです。つまり他の動物は相応しい相手ではない、だから他の存在では代わりにはならない、それが「これこそ」という言葉に含まれているのです。

 結婚ということにも「これこそ」があります。他の人ではなくこの人こそ、自分の相手である、だからこそ結婚をするのです。他の人ではなくて、この人を選ぶ、それが愛です。神様の愛を示すことばの一つは、選びの愛です。神様は私を選んでくださった、そうパウロは告白しています。キリスト者は神様に選ばれた。しかし、それは、自分は選ばれたから偉いんだというエリート意識になってはいけないし、また「あいつはだめだから選ばれない」という他者を裁く高慢さになってもいけません。そうではなく、こんな自分なのに、神様は選んでくださった、愛してくださった、それが分かったとき、驚きと感激が生まれるのです。

 このような神の愛にお応えするにはどうしたら良いでしょうか。それは、私もこのお方を唯一の神として礼拝することです。他の神々よりも天地創造の神、救い主イエス様を信じる。それは他(た)の宗教を批判することではありません。よくキリスト教は排他的だという人がいます。またキリスト者の中で他の宗教の人々を蔑む人がいます。そうではなく、他の人がどうであっても、自分はこのお方だけを愛する。そのような真実な信仰です。ちょうど男女の愛においてもそうです、自分は他の人でも同じように愛する、というのでは夫婦としては宜しくない状態です。他の人に対する愛や友情もよいことですが、自分の相手に対する愛は比較することはできません。特別な意味で「この人こそ」と愛する。そのような関係が、私とキリストとの間にあるのです。だからイエス様は、私たちに対しても叫んでおられます。これこそ、キリストを信じて救われたのだから、キリスト者、クリスチャンと呼ぼう、と。私たちは、そのような愛で愛されているのです。

2.一体の愛

 さて、女が造られたとき、男のあばら骨から一本、骨をとった、と書かれています。そこで、昔は、男性は左右のあばら骨の数が違うという人がおりました。しかし、実際は同じです。だったら、もともと神様は左右のどちらかのあばら骨を一本多く造られたのか。いや、そもそも、そのような理解の仕方があまりにも即物的です。ここはもっと情緒的なことを教えている箇所です。骨の数を数えるよりも、男には胸に骨一本分の穴があるから、それにぴったりする相手を求めるんだ、という理解の方がロマンチックです。なぜ肋骨か。ある学者は、もし男性の頭から骨を取ったら、女が男を支配するようになる。もし足の骨を使ったら、男が女を支配するようになる。だから神様は胸から、心臓のそばから取ったんだ、と説明します。男女が愛によって結びつく関係であることを、このような表現を通して知らせているのだ、と言うのです。骨の骨、肉の肉だから、夫婦は一体なんだ、と24節は教えます。ここに出てくる「結びあう」という動詞は、ぴったりとくっついて離れない様子を意味します。

 この夫婦の関係を、エペソ書やコリント書は、キリストと教会の関係として捉えて、キリストが頭、教会はその体であると述べています。それは、イエス様は主ですから、あばらではなく、頭なのですが、それでも、一つの体として結びついているということです。ではキリストと私たちとが一体であるとは、何を意味しているのでしょうか。それは、イエス様はそれほど深く関わってくださる、ということです。十字架によって罪をあがなったら、はいさようなら、というのではない。いつもつながっていなさい、とおっしゃるのです。そのような命の関係があるときに、一つのことが生じます。それは、一体であるものは痛みをも共有するということです。福音書の中で、イエス様が「深く憐れんで」という表現があります。これは神の愛による感情です。ですから苦しんでいる者がいたら、イエス様は平気ではいられないのです。もし私たちが傷ついたなら、イエス様も痛みを感じておられるのです。もし誰かがキリストの体である教会から離れるなら、イエス様は身を裂かれるような痛みを覚えられる、それほどに愛しておられるのです。そもそも、十字架の愛、それは私たちを救うため、そしてキリストの体に迎え入れるためです。捨てられていたような葡萄の枝を、幹に挿し木する。そのために傷を付けなければなりません。イエス様の傷によって、私たちは救われた。それが一体の愛です。

 毎月、今回は珍しいことに二週連続ですが、聖餐式において私たちは、キリストの肉と血を受ける。それは十字架を覚えるためですが、決して後ろ向きの儀式ではない。むしろ、今も私たちがキリストの肉と血をいただくことを通して、キリストの体との一体性を確認し、強くするのです。またお互いも同じ十字架により救われた兄弟姉妹であることを覚える。だから聖餐式によって教会は一致しているのです。私たちが十字架の傷によるあがないを覚え、いつもキリストと離れないでいるならば、私たち、お互いも一致が生まれます。

 神様は天地創造の前から私たちを選び、愛し、そして十字架の傷を通して私たちをキリストの体としてくださいました。それほどまでにしてくださったのだから、私たちは簡単に教会から離れてはならない。もし離れている人がおられたら、イエス様の痛みを覚えて、その人のために祈るのです。そのような愛による一体感を持たせていただきましょう。

3.恥ずかしくない愛

 最後の節では、二人が裸であることを恥ずかしくなかった、と書かれています。その理由として多くの人は、「罪がなかったから恥ずかしく感じなかったのだ」と言います。それは、3章で罪が入り込んだときから、裸であることを隠そうとし始めたからです。このことについては、来週、詳しくお話します。確かに罪がないから、あるいは無知の故に恥ずかしくない、という側面もあるでしょう。しかし、それだけではありません。もう一つは、夫婦のあり方です。裸というのはもっとも弱い姿です。結婚したら、お互いの弱さを受け入れあわなければなりません。結婚前は、お互いに良いところを見せようとします。でも夫婦となったら、弱いところ、恥ずかしいところも、やがて知られてしまいます。それを受け入れあうことが大切です。そのような夫婦のあり方も、キリストと教会の関係を示します。

 それは、キリストも私たちの弱さを分かっていて受け入れてくださる、と言うことです。自分のような者がクリスチャンだなんて、きっとイエス様も恥ずかしく思っているんだろう。また教会も失敗や欠点があります。そんな教会、神様だっていやになるだろうな。そうでしょうか。どれほど、良いクリスチャン、良い教会として頑張っても、神様は最初から私たちの本当の姿をご存じです。すべて知っていながら、私たちを救いに導いてくださるのです。いや、そもそも罪という、神様がお嫌いなさるものがあるのに、その罪を赦すためにイエス様は十字架にかかってくださった。だから、こんな罪があるからだめだ、なんてこと、神様のほうは決しておっしゃらないのです。

 キリストは私たちを恥とは思わないでいてくださる。では、その愛に私たちはお応えしているでしょうか。キリストのことを恥と思うことがあるでしょうか。人前でクリスチャンであることを言えないことがあります。どこかで恥ずかしいと感じているのでしょうか。自分がクリスチャンとして相応しくないから、という思いがあるのかもしれません。しかし、そんな自分でもイエス様は愛してくださったのですから、堂々と胸を張れば良いのです。そしてキリストの素晴らしさを知っていただけたら良いではありませんか。それが証しです。また、同じキリストの体の肢であるお互いについてはどうでしょうか。他の方の弱い部分、恥ずかしいような失敗、自分とは合わないようなところ、それをキリストの愛の故に受け入れ合う。それがキリストの教会です。ちょっと変わった人がいたら追い出してしまう、それではいけません。最近の学校、いえ、学校だけでなく職場や、様々な集団において、弱さや違いのある人を受け入れないで、いじめる。はじき出す。でも、教会はそうであってはならないのです。それは、神様は私たちを恥とは思わないで愛してくださったからです。

まとめ.

人がその妻を見たとき、「骨の骨、肉の肉」と言いました。「皮の皮」とは言わない。それは外見ではない、中にある内蔵でも脂肪でも、なんでもすべて愛する、それが「骨まで愛する」ということです。骨の骨までとことん愛する、そんな愛でキリストは愛してくださるのです。選んでくださり、痛みを受けても一つの体となってくださった。このキリストの愛にお応えして行きましょう。そして、教会の交わりが、この愛を実現するものとならせていただこうではありませんか。

 

(c)千代崎備道

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