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礼拝説教「神の命の息」創世記2:4〜8

 

序.今日はペンテコステです。あまり知られていないのですが、キリスト教会の三つの大切な日、クリスマス、イースター、そしてペンテコステです。これは、イエス様が復活されてから50日目、弟子達が集まって祈っていたところに、聖霊が下られた、その時から教会が始まりました。ですので、教会の誕生日、とも言われます。ところで聖霊というお方に関しては、難しいことがあります。まず三位一体のお一方なのですが、三位一体自身が人間の理解を超えたことです。そして父なる神と子なる神であるイエス様に関しては聖書は多くのことを語っているのですが、聖霊なる神様に関しては比較的書かれていることが限られています。これには訳があります。イエス様が弟子達に聖霊を紹介した時に、このお方は「助け主」だと言われました。何を助けてくださるのかと言いますと、パウロが言っていますように、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主である』と言うことは」できない、つまり聖霊は私たちがイエス様を信じる時に助けてくださるのです。それも力ずくや無理矢理ではなく、影にあって助けてくださる。ですから聖書ではどちらかというと隠れて働いておられることが多いのです。つまり、私たちは聖霊のことは良く分からなくても、聖霊の方が私たちを助けてくださるので、心配はいらないのです。

 しかし、今日はペンテコステの特別な日ですから、聖霊のことを聖書から学びたいと思います。新約聖書では例えば「使徒の働き」なので聖霊の働きが明確に描かれていますし、福音書でもイエス様の誕生の時や受洗の時に登場されています。旧約聖書の時代は「神は唯一」ということが強調されていました。でも「神の霊」という表現はたびたび使われています。そして創世記の2章、先ほど読んでいただいた箇所では、人間との関わりについて書かれています。今朝は、この2章を通して、神の命の息としての聖霊についてお話しいたします。いつものように三つのポイントに分けてメッセージを進めてまいります。第一に「命を与える霊」、第二に「与えられた場と使命」、そして第三に「必要な助け手」、つまり助け手が与えられたことについてお話したいと思います。(週報の裏側にアウトラインがありますので、参考にしてください。)

1.命を与える霊

 旧約聖書で「霊」と言う言葉と「息」という言葉とは関連して用いられていることがあります。また「命」とも関係があります。2章の7節で、土から造られた人間の肉体に、鼻を通して神様は息を吹き込まれた、と書かれています。なんだか人工呼吸みたいですが、これは神様に口があり、肺があり、人間のように呼吸をしていたということを言っているのではありません。これは神様が人間に命をお与えになったということです。そのときに「息」という言葉を使ったのは、人間には神が与えてくださった霊があるということを、このような表現で伝えているのです。

 神様から命の息を吹き込まれた、それによって人間は生きた存在となったのです。生物学的に生きている、という以上に、神との関係において生きる存在とされた、ということです。神様は霊的な存在であり、人間にも霊がある、というのは何を意味しているのでしょうか。それは、神様と人間とが交わり、すなわちコミュニケーションを持つことが出来るということです。ですから人間はただ生きているのでは無い。神様との交わりの中に生きるとき、もっとも生き生きとした生き方が出来る存在なのです。

 最初の人、あとでアダムと呼ばれますが、彼は命の息を吹き込まれて生きた存在となった。同じ事が新約で、使徒の働きの2章で起きました。最初の教会は弟子達が120名ほどおりましたが、彼らは恐れて隠れていた、決して生き生きとした教会とは言えません。しかし、聖霊が下されたとき、それは天から風のような音が聞こえた、まるで神様が息を吹き込まれたようです。そのときから弟子達は命がけでキリストを伝えるようになったのです。命のある教会となったのです。また教会全体と共に、一人一人に聖霊が与えられ、信じる者とされました。弟子達の時代も、そして今もそうです。聖霊が来てくださったことにより、私たちは神様とのコミュニケーションが可能となった。具体的には、聖霊は聖書を読むときに助けてくださり、頭ではなく心で理解できるように導いてくださいます。また、祈るときに言葉にならない心の思いを伝えてくださる。聖書と祈りによって神様との交わりが出来るのです。また、神と人との交わりが生まれるだけでなく、人と人との交わり、これを使徒信条では「聖徒の交わり」と告白しています。人間同士の交わりは、自己中心のために他者を傷つけます。聖霊が働いてくださるときに愛の交わりに変えられて行く、それが教会の交わりの目指すところです。人間の力ではなく、イエス様を信じるときに心の内にいてくださる聖霊の助けです。

 創世記2章は人間が土の塵から造られたことを告げています。確かに死んだら最後は土に還る。本当は無価値な存在です。しかし神の命の息が吹き入れられ、聖霊が内にいてくださる。だから神様との交わりに生きるとき、本来の価値、すなわち永遠の命に生きる存在となるのです。同じように、教会も聖霊が働いてくださるとき、命の溢れる教会となることができるのです。では、生きるものとされた人間は、そして教会は何をすることを期待されているのでしょうか。

2.与えられた場と使命

 さて1章の創造の記事と、2章における書き方とが少し違うことに気付かれた方もおられるかもしれません。1章は、言うなれば神様の視点から描かれています。世界全体を見ているのです。それに対し、2章は人間を中心とした描きかたです。世界全体としてはすでに創造の働きはされていましたが、人間が造られた場所にはまだ草木が無かったのかもしれません。神様はエデンの園と呼ばれる美しい庭園を造られ、そこを人間の生活する場所とされました。それは美しいだけでなく、生活に必要なものが揃っていました。きれいな水がわき出ており、美味しい実のなっている木がたくさん、ありました。温暖な気候で、また、外敵となる存在もない、ですから家を建てる必要は無かったのかもしれません。

 先ほどは8節まで読んでいただきましたが、9節から14節は、エデンの園についての説明ですので、括弧に入れておいても良い箇所です。15節。

2:15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

 神様は人間に使命を与えられました。それは、彼の置かれた場所であるエデンの園を管理することです。また、「耕す」という言葉の持つ意味は、さらに多くの実を結ぶに至るということです。ただ、そこにあるものを食べ尽くす、というのではなく、実りが豊かになっていく。人間はただ生きるのではなく、何かの使命に生きる、有意義な人生を送るべき存在なのです。しかし、それは強制労働のようなことではなく、使命をはしていくとき、さらに豊かな糧を得ることが出来る。すなわち神様が備えてくださった恵みを受け取ることになるのです。神様が場所と使命を与えられたのも、人間への愛なのです。

 さて、始めの人間はエデンの園に置かれましたが、最初の教会はどこに置かれたでしょうか。それはエルサレムでした。しかし、イエス様の命令は、「エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで私の証人となりなさい」ということでした。エルサレムに留まるのではなく、全世界が教会の置かれた場所であり、全世界に救いを宣べ伝えるのが使命です。

 では私たちの教会はどうでしょうか。この教会は、最初は池の上の地に建てられ、伝道が行われました。今は、二度引越をして、三鷹の地に会堂が建てられています。では最初の場所である池の上で伝道する使命を忘れてしまったのでしょうか。そうではありません。どの場所に建てられていても、イエス様の命令は「全世界」なのです。それは、ここにいる皆さんが手分けして世界の国々に宣教師となって出て行くのではありません。それぞれの教会が、そして一人一人のクリスチャンが置かれた場所で福音を証ししていくなら、それが全世界につながっていくのです。今は三鷹の地にあります。でも、それも三鷹の地の人たちにだけ伝道するのではなく、皆さんの周囲の人、また今は通信技術が発達していますから、インターネットのように文字通り世界中に証しを伝えるチャンスがあります。

 神様が教会に使命を与えられたのも、それは私たちをこき使うことが目的ではありません。証しをするとき、本人が一番、神様の恵みに与ります。過去の感謝がもっと豊かになり、信仰が成長し、もっと多くの恵みを知ることが出来ます。また、証しや伝道を通して、あるいは教会の様々な働きを通して、さらに多くの人々が救われていく。(先日、引越の荷物をほどいていたとき、家内が昔の写真を見つけまして、それはホーリネス教団の90周年の記念誌で、池の上教会の当時の写真、ちょっと小さいのですが、「あ、あの人だ、この人だ」。その頃と今を比べるなら、数倍の人が今、この会堂で神様を礼拝している、素晴らしい恵みです。さらにこれから十年、二十年後、もっとたくさんの人が一緒に神様を賛美する情景を想像していただきたいと思うのです。そのようなイメージを持ち続けるとき、教会を導いておらえる聖霊の助けをいただいて、それが実現されていきます。)そして、教会はもっと豊かな祝福を受け、それにより神様の栄光が顕されていくのです。

 しかし、そんな大きな働き、自分に出来るだろうか、と心配されるかもしれません。そこで、最後に神様が与えてくださる助けについてお話しします。

3.必要な助け手

 さいきん、丸投げという言葉がマスコミで使われます。仕事を与えて、あとは手を離してしまう。放りっぱなしです。神様はそんなお方ではありません。使命を与えたら、それに必要な力を与え、また必要な助けを送って下さるお方です。16節を見て下さい。

2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 これは人間に与えられた最初のルールです。ルールが助けであるというのは、最初は分かりづらいかも知れません。仕事を任されるときに、何の企画書も説明を無しで、「さあ、やりなさい」と言われたらどうでしょうか。最初の人間も、突然、エデンの園の外の世界を見せられて、耕せと言われたら途方に暮れてしまいます。まず彼の仕事場であり食べるものがある場所から始めたら良いのです。神様がルールを与えるのは、それは人間を束縛するためではなく、むしろ自由を与えるためです。自動車を運転することは行動範囲を広げ、素晴らしい可能性があるのですが、もし交通ルールが無かったらどうなるでしょうか。左側通行も一時停止も何も無い。道路を走っていても、どこから何が飛び出してくるか分からない。怖くて運転できません。ルールがあるからこそ、安心して行動できる。それが本当の自由なのです。

 また、2章で人間が具体的に造られてからを見ますと、実はこれは最初に神様から人間にかけられた御言葉でもあります。神様との交わりが生まれているのです。神様が教えて下さる。これは大きな助けではないでしょうか。この御言葉に従うなら、確実に使命を果たすことが出来るのです。

 さらに目に見える助けを、神様は与えて下さいます。詳しいことは来週、お話ししますが、この後、男から女が作られる、ということが出てきます。18節。

2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

 この「助け手」という言葉から助手ということが連想されます。日本では、と言いますか、私だけかもしれませんが、助手と言いますと、博士と助手、というイメージが浮かびます。つまり、助手の方が一段低い存在です。なので、女性が男性の助手である、男性のほうが偉いんだ、といったことを考えることが昔はあったようです。しかし、ここで神様がおっしゃるのは「相応しい助け手」ということです。この相応しいという言葉は、「相対する」ということであって、互角の存在として向き合うことができることを意味します。決して低い存在だという意味ではありません。さらに「助け」という言葉は、神様が人を救う場合にも使われます。力が無かったら助けることは出来ません。もしかしたら女性の方が力があるので助け手とされたのかも知れません。ジョークですが、男性は土の塵から造られたけれど、女性は人間の骨で造られた。どちらが高級な存在か。後で話し合ってください。

 神様はペンテコステに教会を誕生させたとき、すでに多くの助けを与えられました。彼らにはすでに神の言葉である聖書、当時は旧約聖書ですが、それが与えられていました。イエス様の生涯と十字架と復活の出来事、それは新約聖書の土台です、それを彼らは知っていました。ですから神様の御旨を知ることが出来たのです。そして、最高の助け手、助け主である聖霊が与えられた。聖霊の助けがどれほどパワフルであったかは、使徒の働きを読んでいただければ分かります。教会に委ねられた世界宣教という大きな使命は、御言葉と聖霊の助けがあれば、必ず果たすことができるのです。

 さて、聖霊の助けということを考える時に、大切なことがあります。それは、聖霊は意志を持っておられるお方ですから、私たちの思い通りではないということです。聖霊が与えられるとはスーパーマンにようになるのではなく、むしろ私たちのほうが聖霊に従うべきであり、また聖霊の助け方も人間の考えとは違います。時には上からの助け、特に奇跡的な方法で助けが与えられることもあります。そのような証しを聞きますと、自分もおなじような体験を願うのですが、神様は異なる方法を用いることも出来るのです。時には神様は他の人を用いて助けて下さることもあります。そこに聖霊が働いておられるのです。最初の人間に与えられた「相応しい助け手」が、他の動物や天使ではなく、同じ人間であったということは大変意味が深いと思います。教会に、そして私たちひとりひとりに与えられている助け、それは教会の交わり自身であり、お互いが助け合うことでもあります。自分の好き勝手にやりたいことをするのではなく、お互いが他の人の働きを助ける、そのとき、聖霊が豊かに働いて下さるのです。すなわち教会が一致するときに使命を果たすことが出来るのです。

まとめ.

 教会はキリストの復活の証人となるべく誕生しました。ですから宣教がその使命です。その使命を果たす具体的な方法がそれぞれの奉仕でもあります。私たちが一致して神の栄光のために働けるように、神様は教会をキリストの体とされた。それを示すのが聖餐式の一つの意味です。キリストは肉と血を与えてくださり、私たちの内にいて下さる。それがキリストの霊とも呼ばれる聖霊によって実現していきます。今日は聖餐式が行われます。私たちのために十字架に架かってくださった主イエス様のために、一致して、キリストの体なる教会を建て上げて行きたいと思います。

 

(c)千代崎備道

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