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礼拝説教「神の造られた世界」創世記1:3〜8(1章)

 

序.先週は天地を創造された「神様」に焦点を当ててお話をさせていただきましたが、今朝は、その神様が造られた「世界」について考えてみたいと思います。ところで、創世記1章はご覧の通り天地創造に関して書かれているのですが、この箇所を読むときの一つの間違いがあります。それは、これを科学の教科書、と言いますか、つまり科学的常識といったものと直接に比べるということです。創世記は、世界の始まりに関する科学的疑問に対して答えるために書かれたのではありません。また、この書が書かれたときの読者が理解できる用語や表現や概念を用いて書かれているものです。ですから天文学的な宇宙の説明ではなくて、地上から見たままで表現されているのは当然なことでし、ビッグバンのようなことが出てこなくても問題ではない。反対に、最近のキリスト教会の中で「創造科学」ということを提唱するグループがありますが、聖書の記事が科学的にも正しいことを詳しく議論しています。大変素晴らしい研究だと思いますが、ただ、科学的だから正しいとしますと、それは科学を基準として判断していることになります。科学自身は、いまだに発展途上にありまして、100年前には正しいと考えられていたことがいまでは間違っているということが少なくないように、今から100年たったら、随分変わってしまうかもしれない学問です。ですから、科学という眼鏡で見ることが必ずしも最善ではない。

 では、どのように創世記1章を読んだら良いのでしょうか。それは、聖書は神の言葉であり、すなわち、私たちへのメッセージだということです。天地創造の記述を通して、神様が何を語っておられるのか、特に、今の私たちにとって、どんな意味があるのか、それをしっかりと受け止めていくことを忘れてはならないと思います。

 そこで、創世記1章が告げている、神様の造られた世界はどんな世界であるのか、を軸として、考えて行きたいと思います。今朝もお話を三つのポイントに分けて進めさせていただきます。週報の裏側に簡単なアウトラインを印刷していただきましたので、ノートを取られる方は参考になさってください。

 まず第一に「秩序ある世界」、神様の造られた世界には秩序があるということです。第二に「愛による世界」。そして最後に「安息の世界」ということを話させていただきます。

1.秩序ある世界

 さて、この箇所で神様は六日間で世界を創造されたと書かれています。なぜ、六日なのでしょうか。一日でも無い、十日でも無い。ましてや何十億年でも無い。なぜ六日なのか。ところで、この六日間で造られたものの順番、見ないでも言えますか。突然にテスト、ではありませんが、教会学校で聖書を教える方は知っていると便利かもしれません。また聖書学院で学んでいる方、約一名ですが、覚えておくと得するかも知れません。皆さんは別に暗記しなくて良いですよ。第一日目が、有名な「光あれ」です。第二日、これはややこしい言い方をしていますが、結果を見ますと、「海と空」が出来ました。下に水があり、上に空があり、その上にも水がある。これは昔の人は空の上の水が落ちてきたのが雨だと考えていた。今の私たちは空の上から水が降ってくるのが雨だと考えている。同じ事ですね。そして第三日、乾いた地面、すなわち陸地です。また陸地に生える草も造られました。四日目の太陽が私たちにはちょっと順序が違うように感じさせますが、ひとまず置いておいて。五日目が魚と鳥、そして六日目に獣。実は、獣というのは地上で活躍する生き物です。魚と鳥はそれぞれ海と空で活動します。そして太陽や月や星は、生き物ではありませんが、光の世界の存在です。ですから、一日目から三日目と、四日目から六日目とはきちんとした順番で並べられていることが分かります。そこには構造がある。言い換えますと、神様が造られた世界は秩序を持って造られた、ということです。

 このことを違ったことから確かめることが出来ます。1章の中には何度も「区別する」という言葉が使われています。例えば、4節には「区別された」、6節にも「区別があれ」です。また11節や12節には「種類」という言葉が何度か使われています。神様は世界を造りながら、区別をされ、種類に従って造られた。これも秩序を示す述べ方です。

 逆に、神様の創造の御業がなされていない有り様を、2節では「地は茫漠として何もなかった」という言葉で表していますが、これは大変に珍しい表現を用いていまして、ヘブル語で「トーフーワボーフー」という言葉です。台風が来たときに豆腐を外においておいたら、雨と暴風でぐちゃぐちゃになってしまいます。これが「トーフーワボーフー」、です。

☆池の上教会に来まして、驚きましたことの一つに、とても素晴らしい牧師執務室があることで、島津先生がキレイに使っておられた。そこに千代崎が来たとたんに「トーフーワボーフー」状態になりました。これではいけない、と思いまして、本を本棚に入れる。あたりまえですね。ところが、ただ入れたのではダメです。必要な本がどこにあるのか分からないと困ります。ですから、まず本を内容に応じて区別して分類します。それから種類に従って棚に入れていく。すると徐々に秩序が生まれてくる。ところが少しやって、挫折しました。三分の一くらいをしまったところで棚がいっぱいになってしまいました。来月になったら本箱が増えますので、がんばりたいと思います。☆

 神様はずぼらではありませんから、きちんと区別し種類に従って、秩序ある世界を造られた。そして、それを見て「良しとされた」と書かれています。この「良い」という言葉、ヘブル語で「トーブ」という言葉は良いとも美しいとも訳すことができます。神様は秩序のある、美しい世界を造られたのです。ですから、美しい大自然を見たときに、私たちは神様の創造の御業を感じるのです。ただ、残念なことに人間が罪を犯してから、秩序が乱れるようになり、やがて世界を破壊するようになってしまったのは、ご存じの通りです。今では秩序よりも混乱が目につくことが増えてきてしまいました。

 自然界、特に人間の世界は秩序がかなり乱れています。しかし、神の家である教会はどうでしょうか。どの教会に行っても思うのですが、実にバラエティーに富んだ人たちがおられます。でも、様々な種類の人たちがいて、それでいて不思議な一致がある。いろいろな賜物の人がいて、それぞれが用いられて、一致協力して奉仕をしているのでなないでしょうか。もちろん、教会も人間の集まりですから問題も起こります。ですから、御言葉、すなわち創造主である神様の言葉に従うことが大切です。

 教会には年齢や目的に応じていくつものグループ、スモールグループと言います、それが、互いに争うのではなく、尊重し合い、時には枠を超えて協力しあう。それが教会の素晴らしさです。時には意見の不一致や好みの違いも出てきます。しかし、そこに愛があるときに一致が可能となるのです。二番目に「愛」ということを見たいと思います。

2.愛による世界

 先ほどは8節まで読んでいただきましたが、途中を飛ばしまして、26節を読みたいと思います。

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

ここで神様は人間を造られました。六日目の、そして最後に人間は造られた。先週は最初は神、という事をお話しました。この最初に、ということは第一であり、主である、と言いました。では最後に人間が造られたのは、他の被造物よりも劣っているのでしょうか。むしろ、これは神の人間に対する愛の現れでもあります。魚や鳥に海と空が必要であったように、人間のために神様は光も水も食べ物も、全てのものを準備してから、人間を造られた。もし、人間は偉いんだから最初に造れ、と言ったらどうなるでしょうか。陸地もない、光もない。そんな世界では一日として生き延びることは出来ません。ですから、最後に造られたのは、神の愛によって造られたということであり、もちろん、神様は全てのものにたいして愛を注がれておられますが、人間に最も目をかけてくださった。ある人は、創造の頂点として人間が造られた、と言っています。

 ところで26節を見て、いくつか疑問に思うこともおありかと思うのですが、一つだけ。それは「神のかたち」とは何か、ということです。これは私たちが神様と同じ形であって、つまり神様にも私たちと同じように、頭があり、手があり、ひげが...。ひげは、皆さんにはないですね。聖書は神は霊であると教えています。それは神様には形がない、ということです。では「神のかたち」とは何でしょうか。ある人は、それは他の動物にはなく、人間が持っている性質だと考えます。例えば良心、理性、そして意志。動物の中にはそれに近いものもいますが、やはり本能に左右されることが多い。人間は本能が命じるままではなく、その反対のことを理性や意志をもってすることができる。ただ、これらは、特に良心は実際には罪のために本来の姿を失っているとも言われます。もう一つの説明があります。それは27節です。

1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

ここでは、神の形ということと、男と女ということが同等に並べられて結びついています。でも男と女が、神の形とどう関わっているのでしょうか。それは、それは男女が愛によって結びつけられ一体となる、ということだと言われます。これは、神様が三位一体の神様であって、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神様が、愛によって結びつけられ、愛によって交わり、すなわちコミュニケーションがあり、そして三つのお方であると同時に一体でもある。その不思議な有り方を、夫婦という存在は不完全ではありますが反映していると考えられます。これも残念ながら罪により愛が乱れ、一致が保てなくなってしまいます。

 ところで、この男女の愛、正確には夫婦の愛の姿に関して、新約聖書はさらなる真理を教えています。結婚式で読まれる有名な箇所ですが、エペソ書の中で、夫婦のあるべき関係は、キリストと教会の関係を示していると書かれています。私たちがイエス・キリストを主として従うときに、教会に正しい交わりと一致が生まれるのです。キリストが主であることを忘れ、それぞれが自分の好き勝手になるなら一致はあり得ません。またイエス様の十字架によって赦されたことを忘れるなら、交わりは上手くいきません。この世界が神の愛によって造られたように、私たちもキリストの十字架の愛によって包まれ、またその愛にお応えしてキリストを心から愛するなら、教会の中に神の創造の秩序が実現し、全てが良かった、と言っていただけるのです。キリストの愛による教会、キリストへの愛に生きる教会でありたいと思います。

3.安息の世界

 さて、天地創造の七日目、神様は何を造られたでしょうか。2章の1節。この2章の1節から3節は、内容的には1章に入れても良い部分だと言われます。

2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

七日目は何も造らなかったようです。神様は「わざの完成を告げられた」と書かれています。そして、「休まれた」とあります。六日間、一所懸命に働いたので、神様も疲れたんだろうか、と思われるかもしれません。しかし、神様は「疲れることなく」とイザヤは語っています。だったら、なぜ休まれたのでしょうか。この「休む」と訳されている言葉は、後に安息日を意味するようになります。創世記、出エジプト記と読み進めて行きますと、神様が七日目に休まれたのだから、人間も安息日は休むようにと、十戒の中にも書かれています。ですから、神様は予め、将来の安息日の戒めを命じることを考えておられたと思われます。では安息日の戒めとは何でしょう。

 神様が「休め」と命じておられるのは、人間は命じられなければ休まないからです。現代人、特に日本人は働き過ぎだと言われます。それには様々な原因もあると思います。古代の人々も、安息日の決まりを守らずに働く人がいたことを聖書は告げています。それは、安息日も働けば、その分、収穫も増えるからです。もっと手に入れたいという人間の欲望、それは貪りの罪ですが、そのために彼らは安息を得ることを自ら捨ててしまったのです。その結果、忙しくなり、忙しいとは心が滅びると書きますが、余裕を失い、時には体も心も元気を失うこともあります。神様が安息日を定められたのは、神の創造された世界を味わって欲しい、感謝と喜びに溢れて欲しかったからではないでしょうか。

 安息日に何をするのか。ユダヤ教では安息日は土曜日ですが、キリスト教会は復活を記念して日曜日を安息日とするようになりました。現代では土日の二日間をお休みとする企業も増えました。ところが、二日も休みがあるのだから、ということで遠出して遊びに行く、すると疲れ切ってしまい、月曜日には仕事に戻るのがいやになる。アメリカではブルーマンデーと言います。気持ちが暗くなる月曜日ということです。本来の安息日は、神様を礼拝する日です。そして体の休息と共に、心に恵みを満たされて、新しい一週間が始まる。それが本当の安息日です。人間に安息日という恵みを与えるために、神様は七日目に自らが休まれて、そして、「安息」というものを造られたのです。

 この安息日について、新約聖書ではヘブル書で面白いことが書かれています。神様は七日目を安息日とされた。では八日目は? 八日目は無いのです。それは、神様の意図は、この七日目の安息というのは、一日で終わったのではなく、その後もずっと七日目が続いているというのです。それは一週間に一度だけの休みというのではなく、永遠に続く安らぎです。もちろんこの世にあっては、安息日は一日で終わってしまいます。しかし、天国に行ったときに完全な安息がある。これが救いのゴールです。神様は天国のような世界を創造され、人間がそこで真の安息を楽しむようにされた。しかし人間の罪のために安息は失われてしまいました。そこで、新しい安息として天国を用意してくださった、それが救いだとヘブル書は述べています。

 また黙示録に行きますと、そこには天国の様子がちょっとだけ描かれていて、それはいつも神様が共にいて下さり、私たちは神様を礼拝する、天使たちと一緒に賛美を献げる、素晴らしい情景です。毎日が安息日、毎日が恵みの世界、それが天国です。

 今、私たちの礼拝は週に一度です。でも、この安息日はやがて永遠に続く安息の世界、天国の予行練習、天国の約束です。そして教会は、天国に人々を導く道しるべです。ここに来たら素晴らしい安息の一時がある。この方向を見つめて、迷わずに進んでいくなら、本当の安息が待っているのです。神様の創造された世界は、罪に汚染されて行くかもしれません。しかし神様はそれに勝る安息の世界を用意しておられるのです。

まとめ.

 神様が天地創造の出来事を聖書に記録されたのは、神様が創造主であることを知らせるだけでなく、新天新地とも呼ばれる天国の救いに私たちを導いて下さることを教えるためです。この安息の恵みをもっと多くの方に知っていただくためにも、この教会が天国への道しるべ、神様の意図された世界になって欲しいと思います。それはどのようにしたら良いでしょうか。まず私たち一人一人が、神様に愛されていることをもっと味わい、キリストの愛に満たされて、主のために一致することです。また力を合わせて神様を礼拝し、神様からの安息の恵みを豊かにいただくことです。日曜礼拝をしっかりと守る、いや心から楽しんで、神様に感謝と喜びをささげてまいりましょう。

 

(c)千代崎備道

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