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礼拝説教「始めに、神」創世記1:1〜3

 

序.今朝は素晴らしいハンドベルの演奏を聴かせていただきました。母の日ということで、神様への賛美でありますが、お母さんのためということでもあります。母の日は良いですね。それに比べて...。先日、駅前のデパートに行きましたら、母の日セールをしているのですが、ある売り場に、こう書かれていました、「お父さんにもプレゼントを贈ろう」。母の日なのに商魂たくましいというのか。でも、「おとうさんにも」。だんだんとお父さんは付け足しになって来たようで、テレビのコマーシャルで大変人気のあるお父さんと言えば、「カイくん」、犬です。別に、ひがんでいるとか、何か欲しいとか言うのでは、決してありません。やはり、子供たちにとってはお母さんがそれほど大切だと言うことですね。

 一家の中心はお母さんかお父さんか、男と女、どっちが偉いか、という話しを始めますと、家に帰ってから言い争いになってもいけません。家庭の中心は神様である、そのようになって欲しいと思います。家庭ということだけでなく、自分自身はどうだろうか、自分の人生にとって一番大切なのは、それはイエス様だ。私の人生の中心におられるのは神様だ、ということを今朝はお話ししてまいりたいと思います。先ほど読んでいただきました、創世記1章の1節から3節を通して「始めに、神」というメッセージを取り次がせていただきます。説教を三つのポイントに分けて..。と言う前に。

 皆さんの中には説教をお聴きになるときに、ノートを取られるかたもおられると思います。ただ、私も経験があるのですが、ノートを取っていますと時々、書いている間に聞き漏らすことがありまして。そこで、今朝は週報の裏側に簡単なアウトラインのようなものを印刷していただきました。よろしかったらご利用下さい。ただ、毎回、このような準備が出来るかはあまり自信はありませんし、金曜日に書いたアウトラインですので、土曜日に少し細かいところが変わることがあるかもしれません。参考程度に見てくだされば結構です。

 三つのポイント。まず第一に「始めは何か?」ということ。第二に「神が主」。そして第三に「神の言葉」という順序でお話させていただきます。

1.始めは何か?

 聖書全体の最初の言葉は、創世記1章の1節。「始めに、神が」という言葉から始まっています。それがどういう意味を持っているかと言いますと、聖書は最初から神様がおられることを前提としている、ということです。この創世記1章は有名な天地創造の出来事を描いているのですが、もちろん日本のほとんどの人は天地創造を信じておりません。進化論が常識だと考えられております。ところが、この進化論という学説は、その前提として神様はいないということから始まっているのです。神はいない、だったらどうして様々な生物があるのか、それは進化によるんだ。そして人間はサルから進化したのであり、神が造ったのではない。聖書は神話であって、神などいない、という結論となります。しかし、そもそもの前提である「神はいない」ということ自体は決して証明しているのではないのです。反対に、哲学、正確にはギリシャ哲学を背景とした神学では、神の存在に関する議論から始めていますが、これも大変難しいものです。難しい話しをしますと眠たくなりますからやめておきまして。

 私が中学生のころ、神は存在するか、ということを真面目に考えておりました。そのとき、パウロのことばに出会いました。「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです」。つまり、人間が自分の知恵によって神様を知ることができるなら、クリスチャンになれるのは頭の良い人だけ、そして自分は偉いんだと高慢になります。ですから神様ご自身が、人間の知恵によっては知ることができないようにしておられる。でしたら、神様がおられる場合、私にとってそれは聖書の神様ですが、神様がおられるとしても人間は神の存在を知ることができない。そして、もしおられないなら、やはり人間は神の存在は知り得ない。どちらにしても分からないことなんだ、と自分なりに結論付けたわけです。そこで諦めないで、もう少し考え続けていたら天才になれたかもしれませんが。二十歳過ぎたらただの人になってしまいました。

 パスカルという有名な学者がおります。彼は自然科学でも有名ですが哲学者でもあり、ですから神の存在の証明が困難であることを良くしっていて、次のようなことを書いております。彼は信仰を賭け事に喩えて説明しているのですが、神を信じる方に賭けるなら、上手くいけば天国、ダメでももともと。でも信じないほうに賭けたら、下手したら地獄だ、だから信じる方が良いんだ、という話しです。信仰を賭け事にするのはちょっと不敬虔かもしれませんが、面白い考えです。

(ある人は、違った説明をしています。ある集会に来ていた人々に、「あなたがたの中で無神論者はおられますか」、と尋ねたところ、何人かが手を挙げたそうです。「キリスト教の集会で、そのように表明するのは大変勇気のあることです。ありがとうございます。では、その方々の中で、自分は無神論でいて、本当に良かった、幸福だと言うかたはいらっしゃますか?」、すると皆、考え込んでしまいました。)

 神様は決して信仰を無理強いなさる方ではありません。信じる、信じないは人間の自由にまかせておられます。しかし、神様を信じることが、その人の人生を祝福に変えることを忘れないでいただきたいと思います。同志社大学の創立者である新島襄という人がおります。彼は、創世記の最初に出てくる「始めに神、天地を造りたまえり」という言葉を知り、この神様を信じようと決意した、という逸話があります。まだ何も学んでいない、聖書もキリスト教も良く分からない、でも彼は信じたのです。

 「始めに神は天と地を創造された」。この神様を信じるとき、新しい人生が始まります。そしてそれは、その最初の時だけではありません。信仰生活のすべては、神様を始めとする時に祝福となるのです。

 祈りについて考えてみましょう。私たちは何か困ったことが起きたら祈ります。祈るのは良いことなのですが、ややもすると祈りが最後になっていないでしょうか。自分で何もかもやってみて、行き詰まった時に祈る。会社ではよく「ほうれんそう」ということが言われます。仕事で失敗してどうしようも無くなって始めて連絡をしても、連絡された方も困ってしまう訳で、なんでもっと早く相談しなかったのか、ということになります。神様は困ってしまうお方ではありませんが、でも、まず最初に祈って、それから物事を始めるほうが良いのではないでしょうか。

 順番の問題ではありません。危急の時は、祈りよりも前に体が動くこともあります。でも、自分の人生には神様が共におられるんだ、この神様こそ、私にとって第一のお方なんだ、ということを忘れないで行きたいと思います。毎日の生活も、何事でも、神様が第一である、「始めは、神様」だという信仰生活でありたいと願っています。

 しかし、神様が第一であるとは、何を意味するのか、そのことを二番目にお話ししたいと思います。

2.神が主

 創世記1章は、この神様が天地を造られたお方だと紹介しています。天地創造の内容に関しては、時間が掛かりますので、来週お話させていただく予定です。今日は、神様が天地の創造主である、ということに目を向けたいと思います。

 神様が全てのものを造られた、と言いますと、だったら神様は誰が造ったの、と訊く人がおります。確かに、世の中には人間が作り出した神々が多くあります。しかし、聖書の神様は徹底的に、作られた存在ではない、と強調しています。あらゆるものには存在の原因があります。何かがあって存在するようになったものです。しかし、創造主なる神様は、存在の原因は必要としません。神様が、存在の根源なのです。神様がいなければ何も存在しないのです。ですから、全てのものは神様が作られ、そして神様のものなのです。「創造主」とは、神様が全てを造り、全てを所有し、全てを支配しておられる、すなわち、万物の主である、ということです。

 ところが、人間は神様が主であることを認めようとしない傾向があります。聖書の中で誰が一番、人を殺しているか、という記事を読みました。答えは神様だ、と書かれていました。確かに聖書の中に出てくる数字を足すならその通りです。倫理的な問題というのは簡単にお話できることではありませんので、時間をかけて考えなければなりません。ただ、そのような議論の背景として、神様が主であると認めるか否か、が抜けているような気がします。神様が主ではないなら、命を奪う権利は決してありません。しかし、神様が主であると認めるとき、旧約聖書のヨブのように、「主は与え、主は取られる、主の御名は誉むべきかな」という告白が生まれてきます。ところが多くの人は神様が主であることを認めたくない。認めたら従わなくてはならないからです。自分の思い通りにしたい、自分が主でありたい。この、自分が神になりたい、という思いこそ罪の始まりであることを創世記は教えています。

 親は子供に、偉い人になって欲しいと願います。だからと言って、子供が、自分は偉いんだ、だから父も母も自分の奴隷だ、などと考えたら、大きな間違いです。親が何でも子供の言うとおりにする、そんな育てられ方をしたら、その子はどんな人になるでしょうか。偉い人になるどころか、酷い人間になってしまうでしょう。やはり、父母を敬え、という戒めは大切なのです。同じように、神様に造られた存在が、神様よりも上になろうとするなら、それは恐ろしい罪なのです。

 使徒信条の中で、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しますが、それは神様が創造主であると認めることです。ですから、私が主である、という生き方から、神様が私の主である、という生き方をするのです。具体的には、何でも自分の思い通りにする自己中心の生き方ではなく、神様の御心がなりますように、と願う生き方です。

 今日は、後で献児式を行います[予定でしたが、都合で来週に延期することとなりました]。献児式というのは、文字通り、子供を献げるということですが、捧げたらいなくなってしまうのではなく、アブラハムがイサクを献げた時のように、神様が返してくださいます。しかし、それは神様から託される、ということです。だから、自分の子であることは変わりませんが、親の所有物ではないということです。親は子供に期待をします。それは良いのですが、時々、その期待が親の願いであることがあります。自分が若いときなれなかった夢を子供に果たして欲しい、そういう願いです。すると子供も大きくなりますと、自分の願いがありますから、期待通りにしたがらない。そうしますと、親としては良かれと思っていることが、子供にとっては良かれではない、ということになってしまいます。そんなとき、子供は神様から託されたのであり、神様が一番良い道をご存じなのだからお委ねする。子供にも神様の御心が一番なんだと知ってもらう。そのとき、その子は、親の願い以上に素晴らしい、そして一番その人にあった人生を歩むことが出来るのです。

 子育てだけではありません。仕事も学びも、全てのことにおいて、神様が主であり、その御心に従う、すなわち神様の言葉に聞き従う人生が、もっとも祝福の多いの道なのです。

 最後に、御心を私たちに知らせる、神の言葉について考えてみましょう。

3.神の言葉

 創世記1章で、神様は天地を造られた時に、言葉によって造られました。すなわち、「光あれ」と命じられたら、光が出来たのです。このとき、神様は何語で話されたのか、というのは本質的なことではありません。声が伝わったというのは空気だけ先に存在していたのか、とか、神様には口があったのか、というのもズレています。

 では、この神の言葉とは何なのか。旧約聖書では、神の言葉とは律法、すなわちモーセを通してイスラエルに伝えられた神の御旨を教える法律を意味します。それは正しいのですが、受け取る人間の側に問題がありました。人々は自分のやりたいようにしたい。ですから、ルールの抜け道を探し、形だけ守っておけばよい。そうして神様の御心から離れてしまったのです。神の言葉は決して単なるルールではありません。それを語られた神様のご人格と深く結びついております。それは神の愛であり、人間を救おうとしておられる言葉です。そのことを目に見える形で示してくださったのが、イエス・キリストです。

 十二弟子の一人のヨハネはこのキリストのことを一風変わった表現で語っています。

「始めに、ことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」。

これはヨハネによる福音書の冒頭です。始めにあった言葉、すなわち「光あれ」と言われた言葉であり、それ以前から存在していた神の言葉、それこそ神と共におられるお方であり、神ご自身である。そしてそのことばが人間となって世に現れたのが、イエス様だと言っております。大変神秘的な書き方ですし、特に三位一体という、人間には理解しきれない真理に触れておりますので、分かり難いのではありますが、とにかくヨハネは、この天地創造の言葉、神のことばは、イエス・キリストなんだと知ったのです。そして、さらに、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」。すなわち、神の言葉であるイエス様には永遠の命があり、それは人間に光、すなわち救いを与えるものなのだと語っています。言い換えますと、神のことばは、私たちをしばりつけるルールではなく、命と光をあたえる救い主なのです。

 新約聖書を通して旧約聖書を読むときに、そこにキリストの姿を発見します。ですから新約聖書だけでなく旧約聖書もイエス様を証言する神のことばです。私たちが神の言葉に聞き従うというのは、難しいことを知らなくても、このイエス様と一緒に歩むことです。そしてイエス様は私たちを救ってくださるお方なのです。この救い主は私たちを救うために十字架に掛かってくださった。命がけで私たちを愛してくださったお方です。ですから、このお方の言葉に喜んで従いたいと願うのです。

 神様が創造主、私たちの主であるということは、残虐な専制君主が私たちを支配するのではありません。私たちを愛し、救おうとされる方が主であるということです。ですから、このお方の御心に従って生きることが、最も良い道です。それは御言葉によって生きる生活です。毎日、聖書の言葉を読み、祈り、御心を求めるとき、私たちはキリストの命を豊かにいただくことが出来ます。闇の中を歩んでいる時でも、イエス様が光となって導いてくださるのです。

まとめ.

 聖書は、神から始まっています。それは、私たちが神を第一とする生き方をするためです。その神第一の人生は、聖書を中心とする生活によって実現していきます。私たちの創造主であり救い主であるお方の御言葉に聴き従い、また祈りを通して御心を求め、まず神様と語り合う、それが祝福の道です。週の初めの日に、最初に神様を礼拝し、御声に耳を傾け、また毎日、聖書と祈りのときを大切にする。そのような信仰生活を励んで参りましょう。

 

(c)千代崎備道

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