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礼拝説教「不信仰な者の救い」ヨハネ20:24〜29

 

序.イエス様が甦られたのは日曜日の朝でした。次に弟子達の前に姿を現されたのも、次の日曜日でした。やがて、クリスチャンたちは、それまでの土曜日の安息日ではなく、復活を記念して日曜日に集まるようになって行きます。それが日曜日の礼拝の起源となりました。今朝は、その二回目の日曜日に関する箇所を聖書朗読していただきました。

 聖書の中には一つのことで有名な人物が何人もおります。例えば、ソロモンといったら知恵、あるいは富だという人もいます。サムソンは、力ですね。ヨナタンと言えば、ダビデとの友情が思い浮かびます。そのような人々の中で、トマスという人物は「疑い深い」という、不名誉なレッテルを貼られてしまいました。しかし、聖書を良く読むならば、彼は決して不信仰な人ではなかったことが分かります。いえ、確かに有る面では不信仰だったかも知れません。その不信仰なトマスがどのように信じる者となっていったか、ヨハネによる福音書を通して考えて見たいと思います。今日も三つのポイントに分けてお話を進めてまいります。第一に「弟子たちの不信仰」、第二に「トマスの信仰」、そして最後に「キリストの愛」、という順序で話させていただきます。

1.弟子たちの不信仰

 トマスはイエス様の復活を信じられなかった。では他の弟子たちはどうだったでしょうか。四つの福音書を調べてみますと、「信じようとしなかった」、「信じなかった」、「信用しなかった」と言った言葉が使われています。つまり他の弟子も最初は信じられなかったのです。

 最初は三人の女性が復活のニュースを知りました。天使の言葉を聞いた彼女たちは、復活を喜ぶより先に恐れた、と書かれています。マリヤはイエス様に声をかけられたとき、最初は別人だと思ったようです。男の弟子たちは女性たちの報告を聞いても信じません。ですから、聞いて直ぐに信じた弟子は一人もいなかったのです。

 私たちは、聖書の時代の人は科学を知らない無知な人々だから簡単に復活なんて信じたのだろうと思ったりしますが、そうではなくて、二千年前の人もやはり信じられなかったのです。人間は不信仰な存在なのです。クリスチャンであっても、最初は信じていなかった、それが信じるようになっただけです。教会に来て間もない頃は、信仰の先輩の言動を見ていて、とても立派な信仰を持っていると感じるかも知れません。そして、自分はまだまだダメだと思ったりするのですが、そんな心配はいりません。誰でも最初はみんな同じようなものです。聖書も分からない、祈りもできない、それが当然なのです。では、何十年も教会に来ていたら、立派な信仰になれるのか。もちろん、素晴らしい信仰者はたくさんおられます。でも、不思議なことに信仰が深まれば深まるほど、謙遜になって、自分の不信仰さが分かるようになるものです。ですから、試しに訊いてみてください、「あなたの信仰はどうですか」。多分、ほとんどの人は、「いいえ、まだまだです」と答えるのではないでしょうか。「私の信仰は立派です」と言う人がいましたら、ちょっと注意信号かも知れません。

 私たちは誰もが不信仰な人間です。だから救われたのも、信仰生活を守っているのも、全て神様の憐れみの故です。だからとって、不信仰のままでいいんだ、とアグラをかいていて良いのだろうか、と心配されると思います。そこで、次にトマスがどうだったかを見てみましょう。

2.トマスの信仰

 イースターの夕方、弟子たちのところに復活されたイエス様が現れた、そのとき、トマスはそこにいなかった。他の弟子たちが「イエス様は本当によみがえったんだ」といったのですが、トマスは信じなかった、と書かれています。なぜ、信じなかったか、と考える前に、トマスはどんな気持ちだったかを想像してみましょう。仲間たちが興奮気味に復活を語っている。もしそれが本当だったら、どんなに素晴らしいだろう。でも、とてもじゃないけれど信じがたい。信じることが出来たら、きっと皆と一緒に話しが出来るだろうに。一人だけ仲間はずれの状態です。あるいは少し意固地になっていたかもしれません。ペテロたちが「信じろ」と言えば言うほど、信じるものか、と頑なになっていったかもしれません。だからと言って彼は仲間から離れたのではなく、次の日曜日まで一緒にいた。本当は信じたかったのでしょうね。

 さて、日本の多くの教会は女性の方が多い。池の上教会もそう、ですね。男女の違いが原因かどうかはさておいて、統計学的、なんて、統計をとったことは無いんですが、夫婦の場合でしたら、奥さんのほうが先にクリスチャンになることが多いような気がします。次が子供、時には子供が先で親が続くケースもあります。どちらにしても、お父さんは最後に洗礼を受ける場合を、よく見てきました。もちろん、反対のケースもありますが、もし家族の中で自分だけ、クリスチャンではない、そんな場合、どんな気持ちがするでしょうか。寂しいような、あるいは、奥さんに先を越された、という気持ち。男性は変なプライドがありますから、遅れを取るのは沽券に関わる。だから余計に意地になることもあるわけです。

 トマスの気持ちは想像するしか無いのですが、彼だって、仲間と一緒に信じたかった。でもトマスは正直な人だったのか、本当に信じてもいないのに「信じる」とは言えない。だから、つい「手の釘後に指をつっこんでみるまでは信じない」などと言ってしまった。ところがイエス様はその言葉を聞いておられ、次の日曜日、トマスの前に現れ、「釘後に指を差し入れなさい」と言われたのです。トマスは全面降伏です。イエス様の前にひれ伏して、言った言葉をご覧下さい。28節。

トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。

実は、このトマスの言葉は大変に重要な言葉なのです。これまで、イエス様に対してペテロは「神の子」と信仰告白をしました。でもイエス様を「神」と告白したのはトマスが最初だと思います。些細な違いと思われるかも知れませんが、ユダヤ人たちは唯一絶対の神様を信じていましたし、まだ三位一体の教理は知らなかった。ですから目の前にいる人間に対して「神」と呼ぶことはあり得ないことだったのです。でもトマスはそのように呼ばないではいられなかった。疑い深いとか不信仰とか言われるトマスが、実は誰よりも一歩進んだ信仰を告白したのです。素晴らしい信仰の証言、証しだと言うことができます。

 私たちは誰もが不信仰かも知れません。でも、それでも信じたい、ついて行きたい。その気持ちが大切だと思います。クリスチャンになってからでも、まだまだ自分の信仰に自信が持てない、かも知れない。それでももっと信じたい、もっとキリストを知りたい、もっと聖書を理解したい。それが出来る出来ない、ではなく、純粋に、信じたいと願う気持ち、それを神様は喜んで下さるのです。そして、やがてその人の心の内に信仰を芽生えさせ、決心に至らせて下さいます。また、さらに信仰の成長を願って求めて行くなら、時が来たら引き上げて下さる。そして、その人の信仰が素晴らしいと誉められるのではなく、素晴らしい証しをしてイエス様が褒め称えられるように導いて下さり、用いて下さることがおできになるのです。だから、小さな信仰でも構わない、イエス様について行こう、先にクリスチャンになった家族や友人に着いていこう、その思いを神様は受け入れていて下さるのです。不信仰だったトマスが、素晴らしい信仰を証しした。私たちもそうならせていただけるのです。

3.キリストの愛

 次に、イエス様のことを考えて見たいと思います。なぜ、イエス様はトマスのために現れなさったか。それはトマスが信じることができるようになるため。それはイエス様の愛です。でも、良く考えてみましょう。そもそも、なんで最初の時にトマスが同席出来るようになさらなかったのだろうか。イエス様なら出来るはずです。それをわざとのように、トマスのいないところに現れて、結果として次の日曜日までトマスを辛い目に遭わせた。まあ、そんなに意地の悪い捉え方はしないでよいと思いますが、確かに最初の日、イエス様は敢えてトマスには姿を見せなかった。他の場所にいた彼のところに現れなさらなかった。

 十字架よりも前の事ですが、イエス様のところに一人の父親がやってきて、息子を助けて欲しいと願いました。そのとき、「もし出来ましたら助けて下さい」と言った。その言葉尻を捉えてイエス様が言ったのは、「もし出来たら、と言うのか」と、まるで「自分には出来ないとでも言うのか」と、怒ったような言い方です。すると父親は言いました。「信じます、不信仰な私をお助け下さい」。私たちも不信仰です。でも「信じます」と精一杯の告白をします。イエス様は私たちの内にある信仰を引き出して下さるのです。信じることが出来るように助けて下さる。これがイエス様の愛です。

 父親を助けて信じるようにして下さった。トマスを助けて、信じさせて下さった。そこで終わるのではありません。29節。

イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

これは誰に対する言葉でしょうか。トマスも弟子たちも、皆、見てから信じました。ところが、その後、弟子達の宣教によってクリスチャンとなった人々は、見ないでイエス様の復活を信じたのです。その人々にイエス様は「さいわいである」と言われたのです。後から救われた人々が、弟子たちよりも幸いであると誉めて下さるのです。

 イエス様の愛はまだ続きます。この福音書を書いたヨハネは、十二弟子の一人でしたが、彼の言葉が、この後、31節に挿入されています。

しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

ヨハネは、そしてそれは弟子のヨハネを通して、イエス様がそう語っておられるのですが、この福音書を読んだ人、イエス様の生涯に触れた人々が、信じるようになって欲しい、救いを受け取って欲しい、すばらしい証しを立てて欲しい、そして「さいわいである」という言葉を受け取って欲しいのです。トマスだけでない、私たちも信じるものになって欲しい、このイエス様の愛が、私たちを信じる者に変えて下さるのです。自分の信仰に自信が無くても良いです。不信仰だと思っても良いです。このイエス様の愛を知って、「信じたい」と心の片隅で考えていて下さるなら、そこにイエス様の霊である聖霊様が働いて下さり、信仰へと導いて下さいます。

まとめ.

 最後に少し、自分自身のことを証しさせていただきたいと思います。『いづみ』の中にも書かせていただいたのですが、私も疑い深い、不信仰な者でした。救われて、洗礼を受けて、それでも不信仰でした。と言いますか、自分の信仰に自信が持てなかったのです。救われたはずなのに、自分はダメだ。周りにいる教会の皆さんは立派なのに、自分は祈りも下手だし、何も出来ない。それどころか以前と同じように罪人であり、まったく救われたとは思えない。自分は救われたんだろうか。そのように疑い始めたら、どんどんと疑うようになっていきます。イエス様の救いは本当なんだろうか。神様は本当におられるんだろうか。神の存在を考えて言って、終いには自分の存在を疑うようになって。まだ中学生でしたから、なんだか分からなかったのですが、もうちょっと頭が良かったら哲学者になっていたかもしれません。

 哲学は分かりませんが、自分が罪人であることは分かった。そんなある時、新年聖会で旧約聖書のホセア書が開かれ、メッセージが語られました。そこに出てくる、夫を裏切った妻は、それは神様を裏切って罪を犯している自分と同じだと思ったのです。ところが神様はその夫、ホセアに命じて、離れていった妻、今は落ちぶれて奴隷となっている妻をお金を払って買い取り、もう一度妻としなさいと命じられました。神様は、こんな自分だけれど、十字架の贖いによって買い取って下さった。それは神様の愛なんだ、と思い知らされたのです。

 それまでは自分が立派な信仰者となることで救いを確認しようとした。でもそれは自己満足であり、高慢です、そうではなく、ただ神様の愛と憐れみによって、一方的に救われたんだ。それが私の信仰の転機でした。あの父親の言葉、「信じます、不信仰な私をお助け下さい」。私も不信仰な人間です。直ぐに疑ったり、不平不満が出てきます。でも、そんな私でも「信じます、信じたいです」と叫ぶとき、不信仰な者を助けて下さるイエス様が、私の見方となって下さるのです。このイエス様の愛に支えていただきながら、信仰を追い求めつつ、救いの道を前進して行こうではありませんか。

 

(c)千代崎備道

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