トップへ

 

礼拝説教「復活による逆転」ホセア13:14

 

序.イースターおめでとうございます。よみがえられた主を心から崇めます。

 イースター、復活祭はクリスマスと比べますと日本ではあまりポピュラーになっておりません。一つの理由は、復活ということに対する考え方だろうと思います。完全に死んだ人が生き返るなんて、そんなこと信じられない。それが常識です。しかし、常識と思っていることが実は問題である場合もあります。

 そもそも、なぜ私たちは復活を信じられないのでしょうか。多くの人は「非科学的だ」といいます。科学とは何でしょうか。ある人は、「科学とは実験室で繰り返して検証することが出来ることを対象とした学問」だと説明します。数年前に、常温核融合が成功した、と言うことが話題になりましたが、他の実験室で同じ条件で行ったときに同じ結果が出なかったために、科学的には認められませんでした。繰り返して成功しなければ科学的ではないのです。でも、復活は何度も起きることではありません。特にイエス様の復活は特別です。他にもラザロのように生き返った人は聖書に出てきますが、彼もやがては死にました。イエス様は一時的に復活したのでなく、永遠に生きておられる。これは歴史上、唯一の出来事です。ですから科学が検証できないこと、科学を超えた出来事なのです。世界には科学では解明できないことはたくさんあります。謙虚な科学者はそれを良く知っています。ですから、キリスト教の復活は非科学的なのではなく、歴史的出来事として理解しなければなりません。歴史は遺跡や証言を通して調べます。イエス様の場合、墓も遺骨も無いので、物的な証拠はありません。ですから、証言が大切です。それは聖書に書かれていることです。復活の証人である使徒たちは、命がけで証言しました。拷問を受けても、殺されても、決して復活を否定しなかった。もし復活が無かったなら、命をかける理由がありません。ですから、こうしてキリスト教が存在すること自体が、復活の証拠なのです。

 今日はいきなり理屈めいた話しをしてすみません。ただ、知っていただきたいのは、復活があったか無かったかを議論することは二の次であって、私たちが本当に知らなければならないのは、復活の意味です。いったいなぜイエス様はよみがえられたのか。私にとって何の意味があるのか。それを考えませんと、興味本位の論争で終わってしまいます。今朝は聖書を通して復活の意味を考えて行きたいと思います。それは復活は私たちの生涯に、私たちの考え方に、大逆転をもたらすものだ、ということです。「復活による逆転」ということを、三つのポイントに分けてお話させていただきます。第一に「死に対する敗北」、第二に「死に対する勝利」、そして第三に「キリストによる解決」です。

1.死に対する敗北

 さて今朝はホセア書の中の一節を読んでいただきました。その意味を考える前に、ホセア書の説明を少ししたいと思います。旧約聖書はイスラエルの救いについて書かれています。神様はアブラハムを選び、彼の子孫に特別な約束を与えられました。奴隷となっていたイスラエル民族を神様は救い出しただけでなく、神の民として特別な地位と使命を与えられたのです。ところが彼らは神様を裏切って、偶像を拝み、淫らな生活をし、そして弱者を虐げたのです。それ故、神様は彼らの罪を裁かれ、イスラエルの国は滅んでいきます。しかし神様は彼らを憐れまれ、悔い改めるチャンスを与えられました。預言者と呼ばれる人たちを送り、神の言葉を伝えたのです。ホセアは、その預言者の一人でした。当時、イスラエルは南北に分裂して、北王国のイスラエルにホセアは遣わされました。ホセア書はこの北王国イスラエルがいかに罪深く、神の裁きを受けるべき存在であるかをあからさまに語っています。13章の中では、4節。

13:4 しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。

13:5 このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。

13:6 しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。

これは出エジプトの時から彼らが罪を犯し、金の子牛を拝んだことを語っています。また12節、

13:12 エフライムの不義はしまい込まれ、その罪はたくわえられている。

神様は忍耐しておられ、すぐには罰さなかったけれども、彼らの罪が蓄えられ、もう限度に達しており、裁きが下されるのが近いことを意味します。そして15節。

13:15 彼は兄弟たちの中で栄えよう。だが、東風が吹いて来、主の息が荒野から立ち上り、その水源はかれ、その泉は干上がる。それはすべての尊い器の宝物倉を略奪する。

イスラエルは一時的にダビデとソロモンの時代に繁栄しましたが、やがて東から来るアッスリヤ帝国の軍隊により滅ぼされ、略奪されていくことを予告している言葉です。ホセア書を最初から読んでいくならば、イスラエルが滅ぼされて当然であることが分かってきます。彼らはホセアの語った警告をも無視し、ついにアッスリヤによって国は滅亡して行きます。それは、国として、民族としての死だと言うことが出来ます。罪のもたらす結果は死です。それが聖書の告げている厳粛な真実です。

 旧約聖書ではイスラエルという民族の救いが主題で、新約における個人の救いとは少し違います。しかし、私たちはイスラエルの姿に自分を当てはめて読むことが大切です。イスラエルを見ていますと、彼らは何て愚かなのかと思います。悔い改めない頑固さ、すぐに偶像や外国、つまりモノや人に頼る不信仰、そして何度も罪を犯す弱さと愚かさ。しかし、よく考えるなら、自分の中にも同じものを発見します。私もイスラエルと同罪です。そして、罪のもたらす結果も同じです。肉体の死以上に魂の死、永遠の滅び、それが罪の結果です。私たちは罪に弱い存在です。ダメだと分かってるのに止められない、すべきと分かっていることを出来ない。「私は何と惨めな人間だろう」とパウロも語っています。そして罪の結果である死に対しても、私たちは無力です。自分の命をどうすることも出来ない。心のどこかで死ぬことを恐れています。人間は死に対しては勝つことが出来ません。「死んだらお終い」と言うとおりです。

2.死に対する勝利

 さて、もう一度、14節に目を向けて見ましょう。

13:14 わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。

「彼らを死から贖おう」、すなわち「救おう」。これは救いの言葉です。としますと、前後に書かれていることと何か一致しないような気がします。実は、この14節には二通りの解釈があります。旧約聖書の原文であるヘブル語の表現は大変に曖昧であり、正反対の解釈が可能です。口語訳聖書や新しい新共同訳はこれを肯定文ではなく疑問文として理解し、「私は彼らを死から贖うことがあろうか」、すなわち「贖うことは無い」という意味で、これは救いではなく裁きの言葉です。そのほうが前後の節の意味と一致しているように思えます。では、新改訳は間違って訳したのか、というと、そんなに単純な話しではありません。というのは、新約聖書でパウロがこの言葉を救いの意味で引用しているからです。旧約聖書の学者でもあった使徒パウロが間違えたとは考えられません。

 この違いを理解する鍵があります。ホセアの時代とパウロの時代には大きな違いがあります。それは、BCとAD、つまりキリスト以前とキリスト以後の違いです。確かにホセア書の語っているとおり、人間は罪人であり、滅ぼされるのは当然であり、死んだらお終いである。ですから私たちは死に対しては敗北するしかないのです。ところがイエス・キリストが来られ、十字架で贖いを全うされ、さらに復活により死を打ち破られた。だからパウロは大胆に、死に対する勝利の宣言を語ることが出来たのです。

 これは復活により、聖書の言葉が変わったのではなく、人間の理解が変わった、ということです。最初、聖書を読んで分からなかったこと、あるいは「こんな意味だ」と思っていたことが、やがて信仰が成長するにつれて、「こんな意味だったんだ」と目が開かれることがあります。復活を信じるときに私たちの考え方が変えられ、その結果、御言葉の意味がより深くなるのです。復活による理解の逆転です。

 では、なぜキリストは甦られたのでしょうか。それは死に打ち勝つためです。十字架により罪を贖い、復活により死に対して勝利された。それによって、罪と死に囚われていた私たちを救ってくださったのです。十字架でイエス様の生涯が終わっていたなら、どうなっていたでしょうか。身代わりの死によって罪が赦されたとしても、私たちは死を恐れ続けます。死を恐れるときに神様への信頼が失われ、不信仰に陥り、そして救いがあやふやになっていきます。キリスト教の救いは無力なものとなっていたでしょう。しかし、主はよみがえられたのです。復活によって救いを保証してくださり、死の縄目を破ってくださった。十字架による罪の贖いの救いを確かなものとするために、復活は不可欠なのです。

3.キリストによる解決

 十字架と復活により、私たちは罪と死の力から解放されました。ですから、もう恐れる必要は無い、はずです。しかし、私たちは弱い存在です。罪を犯してしまうことがあります。死ぬことを恐れる時があるかもしれません。クリスチャンとなったからと言って、死の問題が簡単に解決できるのではありません。では、また敗北の生き方となるのでしょうか。忘れてはならないのは、復活による勝利は、甦られたイエス・キリストを信じる信仰によることです。「あわれみはわたしの目から隠されている」、イエス様は十字架によって神の愛、憐れみの愛を目に見えるものとして下さいました。ですから、イエス様が共におられるとき、あわれみは隠されたものではないのです。死への恐れはまだあるかもしれない。しかし、同時にイエス様による希望があるのです。

 一つの例として、お葬式を考えてみましょう。キリスト教式の葬儀は、他のものと違う、「何か」があり、それが始めて列席された方に感銘を与えます。それは、死が、終わりではなく、天国の希望があるからです。では、天国に行くのですから悲しみが無いのでしょうか。やはりそこには悲しみは存在します。しばらくはお会いできない寂しさがあります。共に過ごして来られた方は、大切な方を失う辛さがあります。ですから涙が出るのは自然なことであり、決して不信仰などではありません。キリスト教のお葬式では、悲しみと喜び、涙と賛美が同居するのです。

 人間はあくまで人であり、弱さがあり、問題を抱え、そして死を恐れます。しかし、キリストを信じ、キリストの内にあるとき、悲しみと一緒に希望を持つのです。それは矛盾ではなく、キリストにある真実なのです。ホセア書13章14節は、死に対する敗北なのか、勝利なのか。答えは両方とも正しい、です。イエス様にあって、敗北者である私たちも勝利に入れていただくのです。イエス様に頼るなら、弱さや失敗があっても受け入れてくださる。もう救われて洗礼も受けたのだから、自分一人で大丈夫、ということはありません。いつもキリストにつながっている、いつもイエス様を仰ぎ、共に歩む。そこに解決があるのです。

まとめ.

 今日はこの後、聖餐式を行います。聖餐式の形式に関しては、司式者によって違いがあります。私も父の影響を受けておりますので、少し戸惑いを感じる方もおられるかもしれませんが、今日はそれぞれのやり方で受けていただければ良いと思います。

 聖餐の形式や意味に関しては、宗教改革以後、いろいろな議論がなされた時代がありました。このパンは文字通りイエス様の体なのか、それとも単なる記念なのか。時には論争もありました。また18世紀には、私たちホーリネス教会の源流であるジョン・ウェスレーがキリスト者の完全ということを説いたとき、人間が完全になるはずがない、と論争が起きました。19世紀には再臨に関して争われました。ですから様々な教派があり、それらがいがみ合った時代もあります。対立は残念なことですが、かと言って、全員が同じでなければならない、と個性を認めないのも聖書的ではありません。体に様々な部分があるように、多様性は必ず有ります。しかし、対立を超えて一致する方法があります。それはイエス・キリストです。

 聖餐式の前に、「この聖餐は、洗礼を受けた方は、どこの教会の方でも、聖餐式を受けることができます」と言うことが語られます。きよめ派でも、改革派でも、カトリックでも、同じ主イエスの体をいただくのです。パウロは、「主は一つ」(エペソ4:5)と言いました。人間の考えや習慣は様々です。自分が正しいと思えば、相手が間違っている、となります。しかし、同じパン、すなわち同じ主の体をいただくとき、様々な人々が一つとなるのです。どちらが正しいか、ではないのです。私たちの中には勝利と敗北、信仰と不信仰が同居しているかも知れません。それでもキリストの体である教会の一員とされ、復活されたイエス様を仰ぐときに、解決が与えられるのです。

 今朝はイースターの聖餐式です。イエス様が血を流して罪を贖ってくださったこと、そしてキリストの体であるパンを受けるときに永遠の命にあずかっていることを覚え、弱い私の内にイエス様が入ってくださることを、信仰をもって受け止めて、感謝しつつ聖餐に与りましょう。

 

(c)千代崎備道

トップへ

inserted by FC2 system