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礼拝説教「十字架の信仰」詩篇22:1〜3

 

序.先ほど、司会者より紹介をいただきました、千代崎備道です。先月の教団年会において、池の上キリスト教会に任命をいただきました。後ほど、あらためて挨拶をさせていただきますが、ほとんどの方は今日、始めてお目に掛かることですので、(間)どうぞよろしくお願いいたします。

 牧師が替わるということは、教会にとって、信徒の皆様にとりまして、決して小さな事ではありません。様々な思いが、そこにはあるのではないかと思います。しかし、全てのことを益と変えてくださるお方によって、感謝と賛美にしていただけると信じて、御名を崇めたいと願っています。

 池の上教会にとりましても、そうですが、私ども家族に取りましても大きな変化です。何よりも一変に百名以上の方々とお会いして、すみませんがお名前とお顔とが一致するまでの間、失礼なこともあるかもしれませんが、どうぞお許しください。

 さて、このような節目の時に思いますのは、教会とは何か、ということです。以前、聖書学院で教会論を学んでおりました時、ある神学者が言った言葉が印象に残りました。それは、「教会とは変化するものである」、と言う言葉です。二千年近い歴史の中で、教会には多くの変化がありました。一つの教会の歴史におきましても、様々な変化があります。何年経っても変化がない、というのは成長が無い、ということでもあります。ですから変化すること自体は、悪くはありません。ただ、何は変わって良くて、何は変えてはならないか、そこに教会の本質が表されているのではないかと思うのです。

 牧師が替わったことで、最初は戸惑われることもあるかと思います。説教ひとつをとっても、声が違います、語り方がスタイルが違います。メッセージの組み立て方、言葉の言い回し、...しばらくは忍耐していただければ感謝です。祝祷や聖餐式も、少し違いがあると思います。しかし、決して変わってはならない事があります。神の言葉は変わることはありませんし、聖書に基づく説教であることも変わってはならないと思います。では聖書の中心は何でしょうか、それはイエス・キリストです。イエス様の生涯のクライマックスは、それは十字架と復活です。十字架による救い、これが揺るがない限り、表面がいくら変わっても、教会は大丈夫です。

 今朝はこの十字架を信じる、という信仰の土台、教会の原点を皆様と共に確認してまいりたいと思います。特に今週は教会暦では受難週に当たりますので、十字架に焦点を当ててメッセージを語らせていただきたいと思います。前置きが長くなってしまいましたが、「十字架の信仰」、すなわちイエス様の十字架による救いを信じる信仰とはどんなものであるのか、聖書を通して考えてまいります。お話を三つのポイントに分けて進めて参ります。第一に「十字架の言葉」、第二に「十字架の力」、そして第三に「十字架の愛」という順序でお話ししたいと思います。

1.十字架の言葉

 今日、読んでいただきました聖書箇所は十字架の預言として有名な箇所の一つです。世の中では「預言」という言葉は「予告」と同じような意味で用いられています。予め告げたとおりに事が起こる、ということです。しかし、聖書の預言は、それ以上の意味があります。それは、神の言葉である、ということです。神の言葉は真実ですから、将来のことが語られたら、当然、事実となっていく。そして、その事実の本当の意味が神によって示されている、それが預言です。ですから、詩篇22篇が十字架預言である、ということは、それは紀元前千年頃に書かれたことが、イエス・キリストの十字架において実現した、だけのことではありません。この詩篇の中に十字架の真理が込められている、ということです。

 イエス様は十字架上で七つの言葉を語られました。その中には「父よ、彼らをおゆるし下さい」という、愛に満ちた、素晴らしい言葉もあります。ところが誤解を受けやすい言葉もあり、それが「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉です。表面的に見れば、神からの捨てられた、救い主としては失敗者のようです。しかし多くの牧師や学者が言っておりますのは、イエス様はあの十字架上で、詩篇22篇の最初の部分を語られた、ということです。そして、それは22篇の1節だけが実現した、というのではなく、その文脈、この場合は22篇全体を見なければならない、ということです。お帰りなってからで結構ですので、22篇全体を読みますと、驚くほどに十字架の情景と一致していることが分かります。一つだけ見てみますと、18節、

彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。

これは、ローマ軍の兵隊たちがこの通り行ったことが福音書に記されています。わぁ、凄い、ピッタリ当たった。という次元の事ではありません。イエス様が意図されたのは、自分の状況を詩篇の22篇と比べて欲しい、そこに十字架の本当の意味が隠されている、それを弟子達に示すために、22篇の最初を語られたのです。確かに、自分は父なる神から見捨てられたかのようになっている。叫んでも神は救ってくださらない、と皆は思うだろう。しかし、3節を見ますと、「けれども、あなたは聖であられ」、と言うのです。どれほど十字架が苦しいことでも、神様は聖なる、素晴らしい神様だと告白しておられるのです。これが十字架において示されたイエス様の信仰です。

 私たちも困難に遭うことがあります。悩んだり苦しんだりします、時にはクリスチャンであるために辛い目に遭うことがあるやもしれません。例えそうであっても、神様は聖なるお方、全知全能の神、尊いお方です。ですから、周りの状況はどんなになろうと、この神様に信頼しているなら間違いは無い。それが私たちの信仰です。十字架を信じるとは、もちろん罪からの救い、聖書の用語では贖いと言いますが、それが大切です。でも十字架の贖いによって救われたら、もう十字架は無関係なのでしょうか。そうではなく、困難や悩みの中でも、十字架のイエス様の信仰、すなわち父なる神への信頼を、私たちも持たせていただきたいと思うのです。十字架を信じる者は、十字架の主イエスの信仰をも受け継ぐのです。

2.十字架の力

 十字架の上で、イエス様はひたすら痛みをこらえ、苦しみに耐えておられたのしょうか。イエス様の心が、この詩篇の中に隠されています。詩篇を学んでおりますと、多くの詩篇が苦難の中で神に祈っているものであることに気がつきます。ところが、そのような嘆きとも言うべき祈りの途中で、詩人たちは突然に信仰に立ち、嘆きから信頼と賛美へと変えられていくのです。この22篇の中でも、21節、22節。

22:21 私を救ってください。
 獅子の口から、野牛の角から。
 あなたは私に答えてくださいます。

22:22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、
 会衆の中で、あなたを賛美しましょう。

ここで、救いを確信して、賛美が始まっています。でも、なぜ苦難の嘆きから賛美へと変わったのでしょうか。ある詩篇では、過去の救いの恵みを思い出して、信仰を取り戻したケースがあります。しかし、この詩篇のように明確な理由が分からないで、嘆きから賛美へと変えられていることが少なくありません。

 私たちも心に悲しみや悩みをもって苦しんでいるとき、何かをきっかけにして、その苦しみが無くなることがあります。問題が解決できる目処が立った、どこからか助けが与えられた、もっと大きな喜びが与えられた、「だから」神様を賛美する。それは素晴らしいことではありますが、信仰が無くても、起こりうることです。例え、解決の糸口が見えなくても、例え助けが無くても、でも神様を信じ、希望を持って、神様を賛美する。それが信仰です。でも、そんな信仰を、自分が持てるだろうか、と思います。

 困っている時に、神様に祈ります。そのとき、祈っている途中で、何故か神様が助けてくださると確信を持つことがあります。神様に信頼してみようという気持ちがわき上がってくることがあります。また、賛美の歌を歌っているときにも、その歌詞に心が動かされて、信じてみようと思うことがあります。それが一体、どうしてでしょうか。一言で言うならば、それは聖霊の助けです。聖霊なる神様は、私たちの心の中に来てくださり、私たちが信仰を持つ、助けをしてくださいます。私たちは誰も、自分の力でイエス様を信じたのではありません。最初は信じようとしなかったものが、信じる者に変えられる。それが聖霊の働きです。

 もちろんイエス様は神の子ですから、そのような助けはいらない気がします。しかし、イエス様が洗礼を受けたとき、聖霊がその上に下ったと書かれています。その聖霊は、十字架の前にイエス様から離れた、のではなく、十字架においても共におられた。復活後のイエス様が弟子達に聖霊を受けよと言って息を吹きかける箇所があります。ですから、十字架上で「我が神、我が神」と祈ったときも、聖霊が働いておられた。このことを通して、イエス様が示してくださったことがあります。それはこうです。今も、同じ聖霊が私たちの内にもおられ、私たちを助けて、神様への信頼を与えてくださり、嘆きから信仰へと飛躍させてくださるのです。

3.十字架の愛

 十字架の第一の目的は、私たちの罪の身代わりです。しかし、それだけを見ていますと、私たちは十字架を見る度に、申し訳ない気持ちになります。私を救うため、私の罪を赦すために、イエス様は犠牲となられた。でも、実はイエス様は、犠牲となって死なれただけではありません。もっと先を見ておられたのです。30節、31節

22:30 子孫たちも主に仕え、
 主のことが、次の世代に語り告げられよう。

22:31 彼らは来て、主のなされた義を、
 生まれてくる民に告げ知らせよう。

イエス様は後の時代の事を見ておられたのです。人々が救われ、神に仕え礼拝する民となり、さらに子孫や周囲の人々に救いを宣べ伝え、ぞくぞくと救われていく。その様子を、遠い将来を臨み見ておられた。ですから、ユダヤから見るならば遠い東の経て、海の島々において、日本で救われる人が起こされ、今日、このように神様を礼拝している姿を、イエス様は喜んで、十字架を忍ばれた。私たちへの愛ゆえに、喜んで十字架の苦しみを受けて下さったのです。

 親は子供のためなら犠牲をいとわない。それは、子供の未来の幸いを見ているからこそ、喜んで犠牲を払うのです。義務感ではない、いやいやの犠牲ではない。愛は、苦しみをも喜ぶことが出来るのです。

 十字架を信じて、救われた私たちを、イエス様は喜んでおられるのです。そして私たちがさらに福音を宣べ伝え、地の果てにいたるまで救いを伝え、子孫、すなわち次の世代への救いを手渡して行くことを、喜んで下さる。このように神様の御前で礼拝することを喜んでいて下さる。十字架において示された愛は、一人子をも惜しまずに賜った父なる神の愛と、私たちの救いを喜びつつ贖いとなって下さった御子の愛なのです。主は、あなたを愛して十字架にかかって下さった。十字架を信じる私たちは、この愛を忘れずにいたいと思います。

まとめ.

 私が、この教会へと転任して来た。それは同時に広島の教会を離れてきたということです。人間的には、寂しさもありますし、後ろ髪を引かれる思いです。でも、決して広島を見捨てて来たのではありません。自分が去ることを通して、キリストの教会がもっと成長し、もっと大きな祝福を神様が下さる、そう信じて、主の手に委ねて来たのです。私は、島津先生も同じ思いではないかと思います。長年、牧会して来られた池の上教会を離れることは辛いことだったでしょう。しかし、もっと大きな恵みがこの教会に与えられることを信じ期待して、池の上教会の皆様を愛してるからこそ、主の御手に委ねられたのだと思います。ですから、私も、この島津先生の、牧会者の愛を受け継いで行きたい。イエス様がこの教会の未来を見て喜んでおられる、その愛を、私も与えていただいて、使命を全うさせていただきたいと願っております。

 いえ、人間の愛は不完全であったとしても、それ以上にキリストが十字架の愛によって、キリストの体である教会を愛していて下さる。この十字架を信じていくならば、必ず信仰が与えられ、困難を乗り越えて行くことが出来るのです。十字架の主を信じて、前に向かって進んで行きたいと願っております。

 

(c)千代崎備道

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